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雇われ院長ら反乱
社員会・理事会を掌握
創業家・丸田一族追放
 本年5月1日付熊本日日新聞に新装なった熊本整形外科病院の全面広告が載った。上半分を占めた病院建物の下の横に「社会医療法人令和会 熊本整形外科病院」「理事長坂口満 院長生田拓也」とある。熊本整形外科病院(以降熊整と称す)は故丸田意気夫氏が昭和41年に九品寺で開院した。後に熊本丸田会熊本整形外科病院に法人化、熊本でも屈指の外科病院に育て上げた。病院の発展に伴い医師の確保が必要になり、熊大病院整形外科勤務の坂口満氏、水俣市湯之児リハビリテーションセンター勤務の生田拓也氏らを熊整に勧誘、雇用した。この2人が結託、病院乗っ取りを図るなど意気夫氏は無想だにしなかったであろう。

 平成24年7月坂口氏は「廣田を社員から除名するので社員総会を開いてくれ」と丸田秀一理事長に申入れた。当時の丸田会の社員は丸田秀一(意気夫氏長男)、丸田素子(意気夫氏の妻)。森岡由紀(同娘)。廣田耕三(熊本リハビリテーション医師)(以降熊リハと称す)、坂口満(熊整院長)、古閑博明(熊リハ院長)、白石清隆(熊リハ事務長)、安藤隆夫(医療法人永生会理事長)、小林弘(丸田会顧問税理士)の9氏であった。

  この内丸田家側が丸田秀一、丸田素子、森岡由紀、安藤隆夫の4氏。坂口満、古閑博明、廣田耕三、白石清隆の4氏が反丸田家派と見られていた。顧問税理士の小林弘氏は中立を保っていたので、この陣容で役員会のバランスが保たれていた。後で思えば小林氏はキーマンであったが、丸田家側に云わせると「意気夫氏の代からの付合いでもあり全面的に信じていた」らしい。坂口氏の要請を入れた丸田理事長は、7月11日午後7時社員総会、同7時30分理事会の開催を各役員に通知した。当日の総会には丸田秀一氏、丸田素子氏、森岡由紀氏、(以上丸田家)坂口満氏、古閑博明氏、白石清隆氏、廣田耕三氏(以上乗っ取り派)の7名と欠席の為丸田秀一氏を受任者とする委任状を安藤隆夫氏、議長を受任者とする小林弘氏の9名が出席した。この時点でこの日の総会の帰趨は決まっていたのであるが、丸田家側は気付かず総会は開かれた。議長に坂口氏が選出され、議事が進行して間もなく、古閑社員から「丸田秀一氏を除名」の緊急動議が提出された。坂口氏を信じ切っていた丸田一族は正に寝耳に水で猛反発、双方の怒号が飛び交う中、坂口議長が採決を強行した。

 結果はこれまで中立を保っていた小林氏が「議長に委任状」を提出していた為“乗っ取り派”が5票の多数決で丸田氏の社員除名が決まった。続いて開かれた理事会は理事14名中“乗っ取り派”の坂口、古閑、廣田、山鹿、田嶋、武田、白石、生田、川上の9氏と議長を受任者とする小林氏の代理出席が加わり10名が出席した。丸田家側は森岡氏1名だけ出席して他の3名は欠席した。

 理事会では古閑氏が議長に選任されて議事が進行、丸田氏の理事解任と廣田氏を理事長に選任する旨の決議をした。総会終了後“乗っ取り派”は別の会議室に移ったので丸田理事長が赴き「自分が理事長である」と主張した。しかし坂口氏らが警備員を呼んだりしたので丸田氏は退室した。その後理事会が開かれ川上、生田両氏が理事として出席、古閑氏が議長を務め理事会決議がされた。以上の決議は、丸田秀一氏が熊本地裁に無効、不存在を求めて提訴、平成26年3月26日全面勝訴した。



丸田家側提訴して完勝するも
坂口氏・智略で“乗っ取り”成功
 平成26年3月26日付の熊本地裁の判決は丸田秀一氏(原告)の主張を全面的に認めたものであった。敗訴した丸田会理事長坂口満氏、廣田耕三氏、白石清隆氏(被告)は二審に控訴したが、平成27年3月12日福岡高裁は控訴を棄却、再び原告は勝訴した。被告坂口満氏らは最高裁に上告したが同年12月2日突然上告を取り下げた為、同年3月27日付の福岡高裁の判決が確定した。最高裁への上告を取り下げた被告坂口氏らは旬日を置かず次の手を打った。

 即ち、12月2日に上告を取り下げた坂口氏らは「丸田会の理事が欠けた状態にある」として熊本県知事に医療法に基づき、「仮理事の選任」を請求した。熊本県知事は医療法46条の4第5項「理事が欠けた場合において、医療法人の業務が遅滞することにより損害が生じるおそれがあるとき」に該当するとして丸田会の新理事の就任の日までを任期として、崎坂誠司弁護士を仮理事に選任する旨の処分をした。これを不服として丸田秀一氏は熊本県知事を相手に仮理事選任の取り消しを求める訴訟を提起したが熊本地裁、福岡高裁とも請求を棄却した。他方、崎坂弁護士は平成28年1月18日臨時社員総会を開催、社員全員(丸田家側4名、坂口側5名)が出席した。議長に白石清隆氏を選任して議事を開始したが、秀一氏が坂口氏らの社員除名の動議を提出、議長は自分だなど発言した為議場が紛糾し混乱した。崎坂弁護士はこれを「不規則発言」として白石議長に議事進行を促した。秀一氏ら4人は「別室で役員会を開く」として退席した。その後議事が再開され、坂口、廣田、古閑、白石、丸田浩、中村太造、平川敬、原田正孝、川上宏治、山鹿眞紀夫、田嶋光、生田拓也、橋口長生以上坂口派。丸田素子、森岡由紀の丸田派2名の計15名を理事に選任、原村憲司、望月眞一を監事に選任する旨、新理事による理事会を開催する旨、崎坂弁護士を仮理事から解任する旨がそれぞれ決議された。理事会は丸田氏側2名が欠席、新理事13名、監事2名が出席した。理事会において坂口氏を理事長に選任する旨の決議が行われた。

 同1月25日臨時社員総会が開かれ秀一氏、安藤氏の社員除名、丸田素子、森岡由紀氏の理事解任が議案とされる予定であったが、秀一氏らから“和解”の提案をしたい旨の申し出があった事から延会となった。しかし和解は成立せず同2月7日臨時社員総会が開かれ、秀一氏と安藤氏を社員から除名、素子氏、森岡氏を理事から解任する旨、生田拓也、山鹿眞紀夫、川上宏治、平川敬、北村歳男、田嶋光の6氏の入社を承認する旨が、それぞれ決議された。

 以上の決議について丸田秀一氏は不存在又は無効であるとして熊本地裁に提訴したが、平成30年6月熊本地裁は請求を棄却する判決をした。控訴した福岡高裁も平成31年4月請求を却下、その後上告した最高裁でも上告棄却の判決で丸田秀一氏の敗北が決定、坂口氏の天下取りは成功した。




 渋野日向子。
 昨年女子ゴルフの全英女子オープンで、日本人として42年振りにメジャー制覇を成し遂げたプロゴルファーだ。“何を今更”と思われるだろうが、ここで書きたいのは“渋子”の事ではない。日本のジャーナリズムについて一言したいのである。ゴルフはしていない筆者だが、昨年の全英ゴルフは深夜他に見る番組がなかったのでBSのチャンネルで覗いていた。最終日の深夜2時過ぎにチャンネルをザッピングしていて全英オープンにチャンネルが合った。よく見ると渋野が映っていてトップに位置している様だった。加えて渋野の天真爛漫な笑顔と、もたもたせずにボールを打つ姿に惹かれて見続けた。だが13ホールでボギーを叩いたのを機にテレビを切った。

 「日本人は勝負所に弱い」という思いが常々あったからであるが、翌日のニュースを見て渋野の優勝を知った。「帰国したら大変だろうな」と思った通り、出発時話題にもならなかった渋野を待ち構えたのは大勢の報道陣であった。その時からメディアの渋野報道は過熱した。日本のメディアの軽さが諸に出たのである。前年全米優勝で“来日”した大坂しかり、錦織しかりである。大坂はその後のローカルの試合で1、2回戦敗けが続き、錦織も4大大会でベスト8にも進めなかった。そして渋野。予想通り今年の全英で予選落ちした。選手側の心構えもあるだろうが、上昇の芽を摘んだのは過剰報道にあったと見る。



 1面では創業家の丸田一族と、丸田家側が云う所の“乗っ取り”派のドン、坂口満氏との確執と裁判結果による一連の流れの概要を記した。本面では両陣営の動きなどを中心に述べる。尚、乗っ取り派と目される坂口氏、古閑氏に取材を申入れたが両氏から拒否された。又、丸田家側の秀一氏は一部取材に応じたものの、精神的ダメージから脱けきれないらしく、以後の追加取材には消極的であった事を知って頂きたい。熊整関係者も数名取材したが口は重かった。熊大医局出身者で作る「同門会」関係者からの取材を含めた記事と解して頂きたい。

 熊本整形外科病院(以降熊整と称す)は、昭和41年に丸田意気夫氏が開院した。意気夫氏は熊大医学部を卒業後、同大病院整形外科医局に入局、整形外科医として勤務した後の開院であった。意気夫氏の医療技術が優れていた事もあって病院は順調に発展、昭和47年医療法人化。昭和63年には建物を建て替え206床に増床、大型病院になった。病院拡大による医師は熊大整形外科出身者で補充した。その中の1人栄輝巳氏は国立熊本病院に勤務していた所を勧誘され後に院長に就く。坂口、生田氏は1面で述べた通りである。

 平成14年12月丸田意気夫理事長が逝去、2代目理事長に意気夫氏の長男秀一氏が就いた。当時の院長は栄輝巳氏、副院長は坂口満氏であった。病院関係者に云わせると「理事長に就任した秀一氏は坊ちゃん育ちで世情に疎かったが、『自分は創業家の息子』といった意識が強く傲慢な振舞が目立った。その為病院幹部と軋轢が生じた様だ」と語る。当時の某情報誌も「妻の実家が家具屋だった為不用な高級家具を買って従兄弟の事務長も匙を投げている」と報じている。当時の院長栄氏が退職したのも「理事長と意見が合わなかったから」と云われている(退職した栄氏はその後人吉市内の病院に勤務したが今春急逝した)。

 栄院長の後任には副院長であった坂口満氏が昇格した。これを見るとその頃までは秀一理事長と坂口氏の仲は円滑であったと見られる。2人が対立する様になったのは平成20~21年頃から、と見る病院関係者は「秀一理事長は先代の息子さんであり、われわれも支えていく気持はあったが、秀一理事長がそれを笠に着て病院幹部に指示を出したりする。幹部の大方は秀一氏より目上の人が多いが、上からの目線で指示したりするので次第に心が離れていった様だ」と語った。次第に“裸の王様”化した秀一氏と坂口氏の対立は深まっていく。坂口氏が計画的に動いたかどうか、自然発生的に出来上がったのかは不明だが、病院内に“反丸田家派”が出来上がっていく。

 平成22年、病院の発展に伴い医療法人を「社会医療法人」に変更したが、新法人は親族は社員及び理事の1/3以下という規制があり、社員の9名中3名が丸田家が占めていた為この親族制限にぎりぎりであった。この時丸田家は自分達の息のかかった社員を増やし、病院関係者を3名程度に抑えるべきであったがそれを怠った。1面にも記したが、丸田素子、丸田秀一、森岡由紀の3氏が丸田家。安藤隆夫氏(永生会理事長)は意気夫との関係で丸田家側。これに対して坂口満、古閑博明、廣田耕三、白石清隆の4氏が“坂口派”であった。加えて顧問税理士の小林弘氏が、ある時点まで中立を維持していた(と思われる)が、平成24年7月の社員総会で委任状を坂口氏に託した。総会前「何度か坂口氏が上京して(小林氏の事務所は東京)小林氏を説得した様だ」と丸田家関係者。小林氏が坂口氏側に付いた事から5対4と坂口氏側が優位となり、以後社員総会、理事会は坂口氏が意のままに動かす事になる。民主々義では“数は力”である。だが坂口氏らが数を力として押し切った丸田家の社員除名、理事解任は1面でも報じた通り、熊本地裁、福岡高裁で“完全否定”されたのである。



坂口氏 小林税理士抱き込み成功
平成24年7月11日以降の人事掌握
丸田家側提訴・勝訴はしたが…
 1面でも触れているが平成24年7月11日に開かれた医療社会法人熊本丸田会(以降丸田会と称す)臨時社員総会で小林弘氏(税理士法人メディカルビジネス代表社員)が坂口氏側に付いた所から丸田家側の劣勢が決定的となった。優位に立った坂口氏は同日付社員総会で秀一氏の除名、理事解任を強行。川上、生田氏を理事に、武田氏を社員に選任する決議を行った。前記川上、生田氏らが加わった理事会では古閑氏が議長に就任、廣田氏を理事長に選任した。秀一氏らはこれを不服として熊本地裁に提訴、廣田氏の理事長の職務停止の仮処分を申立てた。熊本地裁は同年11月8日これを認め、廣田氏の職務を停止、弁護士原村憲司氏を理事長職務代行者に任じた。廣田氏は同18日に理事長辞任。原村氏は平成25年2月20日丸田会理事会を開催。その場で坂口氏が理事長に選任されたので同3月28日原村氏の仮処分決定が取り消された。

 同年5月29日で全理事の任期満了となった為坂口氏は同年6月10日臨時社員総会、理事会を招集、開催した。社員総会では丸田家側3名(秀一氏招集なし)、坂口派11名の新理事を選任。理事会で坂口氏を理事長に選任する旨の決議をした。翌7月3日付臨時社員総会を坂口氏が開催。秀一氏(原告)について熊本地裁が請求を認容する判決が確定することを停止条件として「丸田会社員から除名」する決議を行った。以上の臨時社員総会、同理事会の決議について熊本地裁は平成26年3月26日一部を除いて丸田秀一氏の主張を認め、決議の無効、不存在の判決を下した。しかし、坂口氏側(坂口満、廣田耕三、白石清隆の3氏)は福岡高裁に控訴したのは前にも述べた。従って判決は確定せず丸田家側は次の段階に進めず、4対5の社員数も動かないので坂口派優位のままで推移した。この間、秀一氏の姉森岡由紀氏は「パワハラ」を理由に介護老人施設サンライズヒル施設長を解任された。母素子氏も「高齢」を理由に副理事長経営企画本部長の職を解かれ、丸田一族は丸田会熊整病院から排除された。



坂口派二審も敗訴
最高裁上告で時間稼ぐ
 先述しているが、坂口派(便宜上坂口派とする)は熊本地裁で敗訴後直ちに福岡高裁に控訴した。福岡高裁は平成27年3月12日被告坂口氏らの控訴を棄却、熊本地裁の判決を支持した。関係者によると「坂口氏らは『福岡高裁で逆転判決が出る』との思いがあった」様であるが、原告丸田秀一氏が勝訴した。坂口氏らは即最高裁に上告したが、この種の民事訴訟が最高裁で覆る事がないのは“弁護士の常識”である。“新たな戦略履行”の為の時間稼ぎと見られても弁明は出来まい。

 先述しているが坂口氏らは同年12月2日上告を取り下げた。これにより原告丸田秀一氏らの高裁判決が決定した。丸田家側の云い分が全て認められ、前述各決議が無効、又は不存在になった訳であり、秀一氏らは丸田会社員、理事の資格を取り戻したのである。この時の心境を秀一氏は「われわれが勝利したのであるから坂口氏の役員は辞めるものと思っていた」と人の善い見解を語った。それをするには臨時の社員総会、理事会を開いてそこで決議する事が必要があった。しかしそれは不可能であった。即ち丸田会の定款第29条「社員の総会の招集は、期日の少くとも5日前までに会議の目的である事項、日時及び場所を記載し、理事長がこれに記名した書面で社員に通知しなければならない」と規定している。これを丸田家側が実行しようとしたのかは知らないが、実行するには日時が不足していたのである。当然この事も坂口氏側は計算していたと思われ、上告を取り下げた6日後の12月6日、坂口氏は丸田会の社員として「理事が欠けた状態にある」として熊本県知事に「仮理事の選任」を請求した。知事はこれを認め同月18日「新役員就任まで」の条件で「崎坂誠司弁護士を選任する」旨の処分をした。

 翌28年1月18日に臨時社員総会が開かれ、丸田素子、森岡由紀両氏と坂口氏以下熊整関係者13名を理事に選任する旨を決議した。続いて開かれた理事会で坂口氏を理事長に選任する旨の決議され坂口体制が確立した。



丸田家“軍師”不在
坂口氏の奸智に敗れた
 医療法人から社会医療法人化した時が丸田家にとって、法人強化のチャンスであったが、「丸田会熊整は父母が創建した」との思いが強かった秀一氏はそこに気付かなかった。「熊整は自分達の物」という意識が強かったと思われる。加えて“人の善い”一面もあって坂口氏ら病院幹部を信頼していたらしいが、これは見方が甘すぎた。

 秀一氏が父の後を継いで理事長に就任して程なく坂口氏から「退職金を前払いしてくれ。でないと他の医師とともにここ(熊整)を辞める」(以上秀一氏談)と云われ「数人分の退職金として銀行から3億を借入れて支払った」(同)と語る。常識的に考えると、この時に坂口氏の“人となり”を感じ取るべきであったが、秀一氏は云われるままに支払った。「これで坂口氏らは定年まで働いてくれると思った」と語る。この点も坂口氏に確めたかったが取材を拒否されたので、ここでの記述は「丸田秀一氏からだけの云い分」である。

 対する坂口氏の遣り方は裁判記録等を見ても“権謀術数”に長けていると見た。先述の通り「小林会計士を抱き込んだ」「敗訴確定を延ばす」「上告取り下げと仮理事選任請求」の素早い動き等、智将坂口満氏の面目躍如である。対する丸田家は余りにも弱かった。秀一氏の医家以外の人間関係の薄さでよき相談者が身の回りに居なかったと思われる。仮理事選任、理事会、社員総会で丸田一族は丸田会から完全排除された。これを不服として秀一氏は提訴したが、地裁、高裁で完敗、最高裁も平成元年10月上告棄却、不受理を決定した。“悪貨は良貨を駆逐する”の典型であろう。


丸田家側が提訴した熊本地裁の判決



 前号1面で速報した合志市須屋の「須屋浄化センター水処理等解体工事」は事前情報通り前田・星山特定建設工事共同企業体(JV)が落札した。荒木義行合志市長は県議時代から土建業者と親しく「口利き県議」として知られていた。合志市長に就任後もその傾向は益々強まり、地元業者でも特定の業者が入札で優遇されていた。「入札情報は市長から漏れているので打つ手は市長懐柔以外にない、と土建業者は競って荒木市長に擦り寄っていました」とは某業者の話。今回の案件は解体だが、荒木市長と㈱星山商店とは前社長時代から昵懇の間柄であった。星山商店と前田産業の親密振りは小紙でも報じたので御存知の読者は多いと思う。

 で、今回の入札だが、入札が公告されたのは8月3日だが、地元では今春頃から「浄化センター解体工事について前田、星山JVが落札する様話が進んでいる」という噂が流れていた。市議の一部にも「事前に荒木市長から話が通してあるので市議会で問題になる事はない」と語る市議も居たという。前田星山JVに落札させる手段は8月3日の「条件付一般競争入札広告」で明白になった。熟考の末か即断かは知らないが、荒木市長は入札参加資格の1つに「解体工事における総合評定値(P)1300点以上」を設定したのである。この評定値を満す業者は熊本県では前田産業1社のみである。応募範囲を「九州内」としているが、6億程度の工事を他県から参入するとは考えられない。良心的な市長なら地元業者の育成も考えて、代表構成員の評定値を950点位に抑えるだろう。さすればJVを組む相手の点数も下がるので多くの中小業者の参加が可能である。それで工事に支障が出る事はない。熊本で前例がないと云われる程高い評定値をつけたのは気風がよい前田の為か。



前評判通り
前田・星山JV落札
 入札は9月3日締切り、9月4日に開札されたが、高い評価点の設定で応札業者は前述の前田・星山特定建設共同企業体しかなかった。合志市が設定した最低制限価格は5億1万966円。(税抜き)。予定価格6億1千51万4千円(税込み)に対し落札価格は5億7千641万4千円であった。上掲の写真は施設の西側から撮ったが、浄化槽と先に見える建屋、その東側に在る2階建の事務棟が工事の対象である。高度な技術を持つ前田産業に絞る必要性はない。関係者が謂う所の「前田でなければならない事情が荒木市長にあった」は何を意味しているのであろうか。





創刊24年を振り返る〈14〉
熊本中央女子高校 甲斐校長の独裁を衝く
 平成12年の春頃であったと記憶しているが、小社に1通の封書が届いた。内容は学校法人加寿美学園熊本中央女子高校甲斐栄治校長の横暴に泣かされている職員からであった。主題は同校に講師として英語を教えている桜場徳之氏に係る物であった。この内部告発(メディア業界で云う所の“たれ込み”)については後に知ったが、市内の各メディアに送付されていたのである。即、動いたのがKKT熊本県民テレビであった。地元紙熊日は勿論、大手新聞社、テレビ局も動かなかった。原因の1つに同校の理事長が熊日会長永野光哉氏であった事が考えられる。KKTは“被害者”とされる桜場氏のコメントを取り、桜場氏の母が経営する洋装店にも取材、甲斐校長の妻が仕立てを依頼したスーツの仮縫い状態もカメラに収めていた(後にKKT取材責任者に聞いた)。筆者は取材開始時にKKTが動いているとは知らず、独自に学校関係者に取材していたが、その過程でKKTが取材した事を知った。内部告発の概要は以下の通りである。

 桜場氏は日大英文科を卒業して熊本中央女子高校に講師として採用された。母と本人の母子家庭で、母は京町で婦人服地の販売と針子数人を雇って仕立をする洋装店を営んでいた。母は息子の徳之氏が少しでも早く「正職員」となる様にと親心から徳之氏が就職後、毎年盆暮に甲斐校長宅に付け届けをしていた。甲斐校長には数万円の商品券、妻のS子には洋服生地であった。お仕立て券は付いていないがS子は布地を貰うと店に出向き仕立てを頼んだ。洋服が出来上ると受取るが「仕立て代は幾ら」とS子が聞いた事はない。徳之氏の母は「仕立てまでするつもりはなかったが、請求すると息子が不利になるのではないかと思って云い出しきらなかった」と語った。

 徳之氏には糖尿病の持病があり、勤務しだして6年後の平成9年9月に長期療養の為休講を申し入れた。その際甲斐校長は「安心して治療して下さい、病気が治ったら再雇用を約束します」と云ったので徳之氏も安心して治療に専念した。平成12年2月、徳之氏は回復した為学校に出向き甲斐校長に復職を申入れた。所が甲斐校長は「貴方の後任が来ているので貴方を受入れる予地はない」と冷たく云い放った。この言動に徳之氏の同僚であった教員などが同情、日頃から同校の労組幹部を要所に据えてやりたい放第の甲斐校長に反発、徳之氏の再雇用を申入れたが拒否された。これが発端となって有志が告発したのである。(次号に続く)



 小紙が「大臣になれない代議士」と書いた坂本哲志衆院議員が菅新政権で内閣府特命担当大臣に任命された。「一億総活躍、地方創生と少子化対策担当」である。菅政権の脇の甘さか、“身体検査”に洩れたのか、現在も不倫中の議員を大臣に任命したのである。小紙が「大臣になれない代議士」と書いたのは、前回の安倍内閣組閣の直前に「熊本県民新聞の坂本議員を報道した記事のコピーが欲しい」と某氏から連絡があったからである。その後「新聞を送れ」の連絡はなかったが、坂本氏は入閣しなかったので「身体検査に引っ掛かった」と勝手に思い込んで前記の記事を書いたのである。菅内閣の組閣で坂本氏の名前を見た筆者は驚くと共に「週刊誌の餌食になるな」と思ったら案の定、週刊新潮20年10月1日号で役2頁を遣って報じられた。同号の記事の大方は間違っていないが、2泊3日の取材期間から見ると内容が全体に甘かった。

 特に筆者が思ったのは、「坂本大臣が女性のマンション(賃貸)に出入りしている現場を何故押さえなかったか」である。(女性とは小紙が報道した際使ったM子)の自宅(文京区)である。故に毎週週刊誌批判を産経新聞で論じている「月刊Hanada」編集長花田紀凱氏から「新潮が報道した坂本大臣の不倫問題は15年前のむし返し」と批判された。週刊新潮が何故「女性宅に出入りする坂本大臣の姿を撮ってから報道しなかったのか」は不明だが、他所様の事を論じても仕方がないので先に進む。

 筆者と坂本氏とは坂本氏が熊日記者時代からの付き合いであった。所謂、熊本市役所の「昼窓手当訴訟」が縁であった。その後県議選でも応援、衆院選に初出馬の際は小紙の“松岡代議士”批判記事の号を選対が3区全戸に配付して勝利した。これは筆者の自惚れではない。選挙後敗れた松岡陣営、勝った坂本陣営の幹部が「県民新聞の影響」と語った所を見ても事実であろう。松岡氏はこの時比例で救われたが、坂本氏に脅威を感じた事は間違いない。平成17年9月の衆院選前から情報誌やインターネットで“坂本攻撃”が始まった。内容は「坂本代議士の女」と題して、坂本氏が県議時代に議会事務局勤務の女性と不倫、相手女性の実名、坂本氏との間に生まれた子供、女性の家族の事まで暴いていた。筆者はすぐ坂本氏に電話をしたが、坂本氏も事実を知っていたので「帰熊したらゆっくり話そう」となった。

 帰熊した坂本氏に会って、「これは事実か」と訊いたが坂本氏は頑として、この記事は「松岡陣営の誹謗中傷だ」と云い張るので、当初筆者も坂本氏を信じ「早く刑事告訴した方がいいよ」と忠告した。が、一向にその気配がない。筆者なりに調べてみるとどうも眞実らしい事が判り、その結果を坂本に質したがやはり否定した。ここで筆者も「今まで支援し『初当選は県民新聞の力』と自他共に評されている俺に嘘をつく男と付合いきれない」として縁を切ったのである。

 以後坂本氏の女性問題を取材、これまで報じられてきた情報以上の情報を得て、平成18年から数回に亘って報道した。特に平成18年5月号「女性疑惑 坂本哲志代議士 やはり事実だった女性と隠し子 本紙が迫った情報源。某女が語る」の見出しで報道した記事は坂本陣営に大きな衝撃を与えた。坂本後援会幹部、町議から「あの記事は本当か」の問い合わせが毎日続いた。坂本氏は「あんな新聞は嘘ばかり書く。私を信じてくれ」と弁解ばかりしていたが、初当選した際の小紙の記事で“松岡に勝った”と思っている坂本支援者に小紙をいくら貶しても通用する筈はない。

 坂本氏が不倫した相手は県議会の「議員控室」の受付嬢であった。最初に夫持ちのOとのW不倫。その後独身で可愛かったM子だ。M子は坂本氏の子を妊娠。県庁近くの産院で女児を出産した。情報紙が報じた時は嘉島町の賃貸マンションに居住していたが、坂本氏が当選した後上京、現在文京区内にM子と娘は同居。娘の顔は坂本氏と瓜二つでDNA鑑定不用である。





TKU
開業以来河津一族支配
“暴力部長・唯一のコネ入社
 前号小紙1面のTKU“暴力部長”に続くが、その前に訂正を。

 「TKUの来歴」の末尾近く「昭和42年2月河津寅雄が死亡」は「昭和54年2月」の誤りでしたので訂正させて頂きます(寅雄氏の寿命を12年縮めてしまって申し訳ありません)。2代目社長は実弟の泰雄氏が継いだが泰雄氏は病弱な体で、その頃「殆ど小国から出た事はない」と云われていた。従って実務は開業当初から佐喜本陽太郎氏が采配を振るっていたので何ら支障はなかったが、佐喜本氏はほぼ毎週の様に泰雄氏を訪ね事業報告を行い、又指示を受けたりした。その泰雄氏が昭和57年2月逝去した。この時TKUに河津家出身者は居なかったと云われ、役員の一部や出資者は「後任には佐喜本氏を」と推したと云われる。佐喜本氏も“その気”になっていたと思われるが、大株主の河津家が認めなかった(注・ここからは筆者が当時聞いた記憶と僅かな資料に基づく記述と思って頂きたい)。

 河津家の誰が動いたか知らないが、当時のTKUを背負っていた取締役専務の佐喜本氏の社長就任を好まなかった。そして持って来たのが当時熊本市民病院の院長であった河津龍介氏である。龍介氏は昭和3年1月14日生れ。熊大医学部大学院で基礎医学を学んでいたという。その後熊本市民病院に移り、当時は院長を務めていた。河津家が龍介氏を社長に、と推したのである。その際TKUの株主達は佐喜本氏支持派と、龍介氏支持派の間で軋轢があったと聞くが、大株主の意向には勝てず龍介氏が代表取締役に就任した。これを機に佐喜本氏はTKUを退社した。又、寅雄社長が設立した「愛育学園」(赤い羽根を基金に昭和38年に開園した知的障害児施設)の理事も辞任を申し出たが、当時の坂本次人園長夫妻から「他に適任者が居ないから理事長を引き受けてほしい」と懇願された。断り切れず引受けた佐喜本氏は亡くなるまで理事長を務めた。無償奉仕であるが、寅雄氏が信頼して理事に迎えた恩義に応えたのである。

 で、ここから“暴力部長”に移る。前号で本松昌祐事業部長の学歴について「青学卒か」と書いたが、これは筆者が訊いた経済人の勘違いの答。実際はTKU現会長の父賢氏の人脈を頼った人生の様だ。祖父の寅雄氏が鎮西中学(旧)出身であった事から鎮西の上田理事長との繋がりを利用して真和中学校に入学、エスカレート式に真和高校を卒業した。大学は学園大を目指したらしいが実現せず2浪。翌年熊本工業大学(現崇城大学)に入学したが、この入学についても「当時の中山義崇学長と佐々峰男事務局長とのコネで入学した」と関係者は語る。それを裏付ける様に、後に中山義崇学長の娘と結婚して中山姓となった崇城大2代目学長中山峰男氏はTKUの取締役に名を連ねている。中山氏は平成25年6月に取締役に就任し平成30年5月に一旦退任したが、本年6月に再び取締役(社外)に就任、同局の番組審議委員長に就任している。「任命の際も話が二転三転して周囲を振り回した」「最近部下への指示、命令は朝令暮改で言動が一致しない」として関係者の間では「本松会長もそろそろ“惚け”が始まっているのではないか」と危惧する声が周囲に上っている。

 又、最近は以前程ないが、市内の某ソープ経営者と親密でよく飲み歩いていた。「飲み代はソープ経営者が持っていた」という声も聞いた。ソープ経営者は“反社会勢力ではない”と云われているが…。昌祐氏の暴力沙汰は社内は勿論、同業の他の局幹部らにも知られているらしいが“同業の誼”で批判の声は挙がらない。昌祐氏の社内外の暴力問題は本松会長も知悉しているが、本松会長、河津延雄社長、加藤友信副社長が河津一族(従兄弟関係)であれば「昌祐氏が将来の社長)間違いなしか。
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