熊本県民新聞 WEB版
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■ 発 行 所 ■
〒861-8034
熊本市東区八反田1丁目14-8

発行者:福島 宏

電話:096-234-8890
FAX:096-234-9883


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 4月14日の前震で熊本市中央区の住民は白川公園や、小、中学校に避難した。熊本市も市庁舎1階を市民に開放したが、本震後は一挙に避難者が急増、本庁舎は数百人の避難者で溢れた。そんな中、5階の市長室には秘かに大西市長の家族が呼び寄せられて数日を過した。事の是非は問わない。“公私混同aの声を大西市長はどう受け止めるのか。

 前号は一連の熊本地震に於ける熊本市の防災態勢の不備を中心に述べた。大西市長の市長らしからぬ周章狼狽振りに触れた。その際、大西市長が帰宅せず市長室に泊り込んでいる為、秘書課職員や、幹部クラスが帰るに帰られなかったと書いた。大西市長の自宅も当初「半壊」の情報を得ていたが、その後複数の職員などから「全壊したので家族はホテル暮らしをしている」と聞いた。家の半壊、全壊は記事では重要ではないと確認には行かなかった。中堅幹部から「大西市長の家族が市長室で避難生活をしている。いくら緊急時であっても、家族を市長室に泊らせているのは不味いのではないか」と情報が寄せられた。前後して市民からも似た情報が寄せられた。関係者に取材した所「それは事実だ」と云ったので、某日市の秘書課を訪れた。

 筆者が単刀直入に「市長の家族が地震後市長室に泊っていたと聞いたが…。」と聞くと「それが何か問題ですか」と云う。「公私混同と思うし、市の職員からも同様の声が寄せられている」と云ったら黙り込んでしまった。「私は家族が泊ったのは5日とか8日とか聞いたが、実際は何日間泊ったのか」と尋ねたが「混乱した状態だったので何日泊ったかは知らない」と云ったので、宿泊数の確認は諦め、他の話をして退出した。この幹部氏は「何か問題が」とキョトンと答えたが、ならば、秘書課職員に「家族が泊っている事は口外無用」と箝口令を敷いたのは何故か。庁舎1階には数百人の市民が避難、固い床に薄いシートを敷いた上で夜を過している(日中は職務の為外に出される)時、市長の家族は暖房の効いた市長室(応接室も)で過すのは如何なものか。私見だが、市長自宅は帯山校区に在る。若し家族が一般市民と共に近くの小、中学校に避難していたらどうか。「市長の家族が一市民として避難生活を送った」と“美談”として語られたのではないか。身内優遇に走った大西一史市長は所詮凡人でしかなかった。いい話も聞いた。1階の避難者に対し市の職員が病人や老人、小さな子供の居る家族を議会棟に案内した事だ。ここは暖かく床の絨緞も厚いのである。



大西市長自宅外観上損傷なし
 前号1面「パニクった大西市長」の見出しの本文の最終5行で「大西市長自身、自宅全壊で足に負傷していた…」と書いた。この情報は、市議や、熊本市の中堅幹部数人から聞いた話をそのまま記事にした。全壊とも、半壊とも聞いたが、本文と関係がないので確認はしていなかった。本号を書くに当り「自分の目で確めておこう」と自宅に行った。右が自宅写真である。内部は不明だが、少くとも外観に大きな損傷は受けていない。“全壊”の噂は一体何処から出たのであろうか。





熊本市
震災関連残業代20億円
自主申告・市長専決で支給
 下欄の「職員出勤及び時間外勤務について」一覧は、筆者が熊本市人事課で出してもらった表である。大災害時に自治体職員の時間外勤務は常識である。熊本地震の際、各自治体の職員が定時に出勤、退勤していたら住民から殴られてもおかしくはない。地震発生後10日や20日の間は1日数時間の残業があっても当然であろう。しかし、筆者が耳にしたのは「市役所本庁(中央区)に於ける職員が限界を超えた勤務を強いられている」という市職員の通報であった。前号でも触れたが、その原因が大西一史市長の混乱した指揮にあるとも聞いた。特に市長直属の秘書課と危機管理防災総室は「悲惨」の一言に尽きるというものであった。そこで、両課について時間外勤務時間、全職員の出勤人数(半数近くが欠勤したと聞いていたので)を出してもらったのである。

 市の関係者にこの一覧表を見てもらったら「この程度の超勤ではなかった。出勤人数もわれわれが掴んでいる(概算)人数と相当違う」という事であった。この点は人事課も筆者が「こんなものではない筈だ」と伝えたら「私達もこれが正確な数字とは云えない。混乱の中でタイマーの故障もあった」と、この数字に対して正確性に欠く点は認めている。秘書課については本震があった16日は12名中(役付を除く)半数の6名が出勤。84時間の超勤で一人平均14時間である。筆者が提出を求めた16日から30日の月末迄の間の疑問点を詳細に分析出来ないので略すが、「秘書課関係者から聞いたが、平日でも相当な時間居残りを命じられた様だ」と語る職員も居る。関係者も「超過勤務を意識せずタイマーも押していない課員も居たと思うが、その点は各自の意志に任せている」と超勤時間の不正確さを認めている。危機管理防災総室は本震があった16日は出勤者16名で274時間、17日は21人が出勤、243時間の超勤となっている。殆ど不眠不休で働いた事が分る。月〜金曜日は出勤者が多く、超勤時間も平均すると一人当り2〜3時間となるが、先述した通り同室は“日陰の存在”として半数近くが他課の定年退職者の再任用者である。仕事も出来ないが基本的に週3日の勤務であり、帰属意識などは期待出来ない。その分正規職員に負担が懸る訳で、連日深夜まで勤務した職員が多い。

 所で、4月21日から5月20日までの一カ月間の時間外手当が20億円前後支払われたと聞いた。告発者曰く「正しい残業時間を熊本市が把握していて支払われたのなら文句はない。しかし、私の周りで日頃は超勤を嫌う人物が100万円以上貰ったと喜んでいるのを見て腹が立った。同僚にパチンコ代を借りていた人物が借金全額を払ったりしているのを見て“自己申告”に疑問を持ったのです」と語る。




 熊本地震の発生から早くも3カ月が過ぎた。筆者の居宅は幸いにも被害を免かれた。住居は5、60戸の住宅団地で、地震後両隣は部分損壊と知った。先隣りは外壁に亀裂が走り、被害が酷いと一目で分った。住人の話だと「内部もめちゃくちゃで住めない」という事であったが、間もなく解体された。それ以外は外観上被害が分らず「家の被害が少くてよかったな」と他人事ながら嬉しく思っていたのである。いつも通る道路際の家や店舗も変りはなかった。

  しかし、時間が経つに従って筆者の見方の甘い事を思い知らされた。2カ月程したら2軒右隣りの家が解体された。数軒先の築10年位の立派な2階建に足場が組まれて補修工事が始った。屋根のソーラーパネルが外されると割れた瓦が見えた。外見上は何ともなかった外壁も壊され、工事は1カ月以上経っても続いている。通勤道路もそうであった。いつの間にか家が解かれ空地になっていたり、住人が出た家も目につく様になった。「断層帯の地震は震源から離れていると急速に被害が少くなる」と、阪神淡路大震災の時に知った。それで単純に益城町から直線で5、6キロ離れているから大丈夫と思い込んでいたのである。今更ながら自然の力に畏怖を覚えるとともに、人間のひ弱さを改めて噛み締める事となった。水道の栓を捻じれば水が出る、腹が空けば食事を摂るなど、普段の何気無い生活が“有り難い”と思う今日此の頃である。



 4月14日コ熊本県益城町を中心とする震度7の地震が発生、震度5〜4の余震が続く中、16日午前1時25分、本震を上回る震度7、マグニチュード7.3の地震が発生した(後に気象庁は16日の地震を本震、14日の地震を前震と発表)。被害状況は連日マスメディアが報道、小社の出番はないので、大手マスメディアが余り報じない縁の下の力持ちに焦点を合わせた。被災者を遠慮なしに撮り、インタビューをして心を傷つけた記者達に比べ、多くの被災者に援助の手を差し延べた彼等に感謝の声が寄せられている。「縁の下の力持ち」は自衛隊員であり警察官である。他に消防団員、予備自衛官などが居る。紙面の都合上略記的に述べる。

14日21時26分最初の地震が発生。災害発生時のマニュアルに従って航空自衛隊築城基地からF15戦闘機2機が発進、熊本県に飛来後上空から被害状況など情報を収集した。その後RF4偵察機を飛ばし情報の詳細を収集した。22時30分、蒲島知事が災害対策本部を県庁10階に立ち上げた。22時40分、北熊本の第8師団長に災害派遣要請。師団長は待機していた健軍駐屯地から第一陣400名を現地派遣、その後、第42普通科連隊も出動2,000名態勢が整った。しかし、16日の本震により西部方面隊だけで対応出来ないと判断した安倍内閣は国内5方面隊(西部を含む)に出動要請を行った。本震後安倍首相は25,000人態勢を指示した。他方16日の地震では大分県由布市、別府市で震度6弱を記録、広瀬大分県知事は由布院駐屯地の西部方面特科隊長に災害派遣を要請。特科隊、第368施設中隊が出動、被災者の救援に当った。

15日夜には早くも野外浴場を第8後方支援隊が益城町に設置。17日夕方には第7後方支援隊が西原中学校に野外浴場を設置「六甲の湯」と名付けて避難者に提供を開始した。上の写真は第42普通科連隊員と、滋賀県警警察官による人命救助活動である。地震発生直後から自衛隊は空、陸、海の3部隊から成る「統合任務部隊」を組織して一元的に救援作戦を展開、空、陸、海一体の救援活動が行われたが、大分県は4月28日、熊本県は5月30日夫々撤退要請を行い一連の自衛隊派遣は終了した。この間の動員数は最大時26,000名、延814,200名が救援活動に従事した。
航空機は最大時132機、延2,618機。海自は最大時15隻、延艦艇300隻であった(以上防衛省統合幕僚監部ホームページ他)。陸上自衛隊員については、被災者と間近かで接した関係もあって、多くの人達から感謝と感激の声が小社にも寄せられている。



西村益城町長パニック
素人考えで申し訳ないが、14日の地震の震源は健軍から益城町津森、南阿蘇村付近ではないかと見ている。益城町の震源に近い町民からもそんな声が多かった。で、震源に近いとされる益城町の西村博則町長だが、14日の“前震”直後から役場に出て陣頭指揮を執っていた。それはいいんだが指示、命令に一貫性がなく役場の職員も混乱するばかり。前震直後に役場本庁舎内に対策本部を設けたのはいいが、15日に日赤が「役場前の駐車場に臨時診療所を設けたい」と申し入れたが「役場の業務に支障を来たす」として断った。陸自も同様の申し入れを行ったが断わられ、夫々場所を移して救急診療に当った。避難者への救援物資も支給が遅れるなど町民の怒りを買った。



遺体の安置・検死立ち会い
捜査一課員苛酷に堪えた
一般のマスメディアが殆ど報道する事がないので、世間に知られない部署が捜査1課である。普段は強盗、殺人事件等を担当しているが、死者が出た場合も遺体運搬、検死立会を行う。一連の熊本地震では数日で40人近い人が生命を失った。医療施設や、病院で亡くなった人は検死の対象外だが、それ以外の事故死(震災死)の遺体は医師(ボランティアが多いらしい)が検死に当る。今回の様な大規模震災の場合は一定の広い場所が確保され、遺体が運び込まれる。熊本県警は警察学校を遺体安置所に当てた。遺体は救急車、自衛隊衛生班の車輌から搬送されて来た。運び込まれた遺体を清め、医師の検死を待つ。終った遺体は待っていた遺族に渡される。「今回の場合は家屋の倒壊による死亡者が多かった為身許がはっきりした人が殆どであった」と云われる。目を逸らしたくなる遺体も少くなかったという。

一課の検死班は県警本部に4班あるが、要員不足から各警察署から1〜2名の応援を得て行った。きれいに洗い清められた遺体を医師が検死、遺族の多くから感謝された。他県の応援隊も「熊本方式」と高い評価がなされている。

所で、本報道に当って県警広報課に電話で「取材したいが」と問うた所「県警記者クラブ参加社以外の取材は受けない」であった。「吹けば飛ぶ様なタブロイド紙など眼中に無い」のは分る。が、その反面「県警が一番恐れている新聞は熊本県民新聞」と時折県議や県警中堅から聞く。県警と癒着した記者クラブより小紙の支持者は多い。



熊本県警2,200人態勢で臨む
41都府県から28,000人派遣
県警は4月14日の前震後2時間でほぼ全警察官が所属部署に揃ったと云う。発生時刻が午後9時26分、自宅で寛いでいたのが大半であろう。ある警察官は「家族に重傷者が出た場合は別だが、大地震の場合早急な出勤が義務付けられている。わが家も半壊状態だったが、家族が無事だったので強い余震の中出勤した」と語る。熊本県警は直ちに対策本部を設け、情報収集に当ると共に九州管区警察局に支援を要請した。当初は九州管区内で対応可能と読んでいたが、16日の本震後「1都2府38県から応援部隊が駆け付け延28,000人が活動、6月29日に最終支援部隊が引揚げた。」括弧を付けた所だけ県警が回答。
北署は屋上タンク給水構造の為、飲用水、トイレなどの使用が可能であったが、白川公園の避難者がそれを知り押し寄せた為15日夕方受入れ中止。水不足が生じ植木まで行って補充したという。
16日本震後県警察学校体育館を遺体安置所に使用開始。同日から続々と熊本入りした支援部隊は、県警警備課が中心になって各地に配備したが、益城、南阿蘇など被害が大きい地区には阪神大震災の経験を持つ中国管区派遣部隊を配したという。各警察署の110番は普段の5〜6倍に上り電話応対に多くの人手を取られ今後に課題を残したと云われる。




益城町の倒壊家屋から住人を救出する第42普通科連隊員と滋賀県警支援隊員
(西部方面総監部ホームページより)


南阿蘇村高野台団地で深夜の救出作業に当たる第8普通科連隊員達
(西部方面総監部ホームページより)


南阿蘇村で行方不明者の捜索に当たる県警機動部隊員
(県警ホームページより)



 平成8年5月号は創刊2周年号である。それを意識した訳ではないが、偶々入手した情報がメディアと熊本市(県も)の癒着の構図であった。この年姉妹都市の関係にあった独逸ハイデルベルク市「市制800年祭」に熊本市が招待を受けた。熊本市は、市、市議会、民間団体など5団体で友好訪問団を結成、5月23日から順次派遣した。その際、熊本市広報部は市政記者クラブ所属各社に同行取材を要請した。同行する社には「取材協力費用補助金」として20万円の支給が伝えられた。左に掲載の本紙は大型虫眼鏡で見れば読めると思うので、ここでは概要を記す。

訪問団にはテレビ3社、新聞2社の計5社が同行したが、本来ならテレビ新聞各1社の代表取材で済む案件だろう。テレビ1社は「市の広報番組製作」費用として100万円前後が支出されたと後から聞いた。他の4社の内2社は「官々接待が話題になっている今、取材に補助金を貰うのは如何なものか」と受取りを拒否した。他の2社は20万円の受取りを了承、夫々の社に20万円が振り込まれた。この情報は5月20日頃入手したが、取材は訪問団が出発した23日以降に行った。熊本市が補助金を支出する前に筆者が動けば支出を中止すると思ったからである。取材した結果、2社の銀行口座に各20万円が振り込まれたと判明した。しかし、小紙の動きを察したのだろう、2社とも熊本市に返納していた。某紙とテレビ局は筆者の取材に補助金を貰ったのを認め、返済したと回答したが、熊本市は担当の広報部、国際交流課とも頑なに支出を否定した。だが本案件を取材中に某メディアの記者から「市に限らず、県も海外に同行取材する時には“小遣銭”が出ますよ。熊本市は平成6年8月に香港で『熊本展』を開いた時、4社6名の記者に各10万円を支給しています」と聞いた。

この前号でも熊本県庁記者クラブと県の癒着を小紙は暴いている。当時県政記者クラブは毎年ゴルフ大会や麻雀大会など行っていたが、その賞品や、賞品代などを幹事社が広報課、秘書課などに“おねだり”していたのである。又、県庁幹部や県議と麻雀卓を囲む事もあるが、そこで現金が動いているのである。これで県政批判など出来る筈はなかろう。市政記者クラブも同様で、平成7年に親睦会と称して三角市長以下市役所幹部と記者クラブ合同で菊池温泉1泊旅行を行っている。県政記者クラブも前後した年に「花見会」を知事、県幹部らと菊池温泉1泊で行っている。これらは小紙が報道して以後「日帰りになった」と聞いた。この様に小紙如きタブロイド紙が創刊2年で報道できたのも大手紙、テレビなどのメディアが官報癒着でなあなあ主義に堕した結果であろう。





 震災直後から問題視された中に被災ゴミの処理があった。熊本市は、通常のゴミ収集場所に、日常のゴミと分けて罹災ゴミを置く様に通達したと記憶している。筆者が住んでいる50戸程の住宅団地は、県道に接する道路にゴミ置場が指定されている。本震後から罹災ゴミが集まりだし、10日程で団地内の市道の半分程を占拠した。瓦やブロックなども無雑作に置かれていた。他の家具類も壊れた物が多く、地震の被害の大きさが分かった。このゴミは5月末頃収集業者の2tトラックが来て2日程かけてきれいになった。これで道路がすっきりしたと思ったのも束の間、翌日からゴミが集まり出した。

 写真2は5月3日の夜撮ったものである。県道との角地に雨水を一時的に溜める堀があり、それに沿って金網のフェンスが数十メートルあり(写真の背後に写っている)民家のブロック壁まで続く。写真の冷蔵庫を見れば分るが、県道からずらりと電化製品などが「捨てられて」いるのである。この冷蔵庫は外見上何の損傷もない。右側下は2槽式洗濯機、その上は電子レンジ。その右には32型ブラウン管テレビが2台重ねて置かれている。数日後、ゴミの山は写真から左に延び、この民家の出入口まで達した。耐え兼ねた住人が「これ以上ゴミを置かないで下さい」と張り紙をする始末。そのゴミも収集されていったが、又翌日から罹災ゴミではない不用品と思われる品々が捨てられだした。写真の3と4である。ベッドのマットなど傷一つなく、3台ある自転車は古いが乗れそうだ。3の安っぽい家具も明らかに不用品処理物で、その上にある古いビデオデッキなど電気製品も同様だ。写真の日付けを見てほしい。5月3日から13日までの10日間でこれだけの物が捨てられたのである。人間の自分さえ良ければのエゴと、卑しさつをつくづく感じた次第。写真1は西原団地の一画、タイヤだけが罹災する筈はなかろう。5、6本が捨てられていた。











避難先の小中学校
先生達が頑張った
 今回の熊本地震で一時避難した人は11万人余と見られているが、避難先次第で大きく明暗が分かれた。筆者が耳にした様々な話を集約して述べる。

 先ず明から、市は日頃から災害が発生した際市民の避難先を校区毎に決めている。今回も多くの市民が自宅に近い避難先に避難した訳だが、公園、小学校、中学校、高校等で救援物資の支給までの時間、内容まで大きな差異が出ている。健軍地区の某小学校では毛布の配布が遅れたが、その後、水、非常食などは充分に配られたという。又、小・中学校では教頭自ら指揮を執って教室の開放を行い、教員らを指揮して炊き出しを行った。教員の中には「家族が他校区で避難生活を行っている」と云いながらも、自分が勤務する学校で支援活動を行った。これら学校側の活躍は県警本部も掴んでおり「改めて責任感の強さを感じた」と話す幹部も居た。この手の話は多く耳にしたので教委あたりの指示があったのかと思う。

 一番恵まれたのが中心部の小学校。周辺のホテルが「腐らせるより避難者に」と在庫の材料を放出、プロの調理師が調理したので「日頃より上等な食事が出来た」と老若男女を問わず感謝した。他方西部の小学校などでは16日に「ニギリ1個しかなく、ペットボトルも自分達のを分け合った」学校もある。市の非常食など一部にしか行き渡らず、大西市長が4月17日の記者会見で「16日現在で避難者の約4割にしか届けられていない」は全くの嘘。下から云われたのを口移ししただけだろう。又、出水校区の某中学校、教員達が自主的に炊き出し準備にかかった所、バカ校長は「うちは避難先に指定されていない、余分な事はするな」と教員らの善意を踏み躙った。西部の小学校では学校再開を控えた2、3日前PTA会長と名乗る女性が避難者に「近く学校が再開されるので明日中に出て下さい」と強い言葉を投げて去った。その後、教員が「すみませんね、明日までは大丈夫です」と避難者に頭を下げた。

 次に不思議な現象について。五福小だったと思うが、校庭で机を並べて水などの救援を求めたという話と、国府高校も同校校庭に救援の文字を書いた。これをメディアが喜んで報じていたが、メディアもおかしいのではないか。南阿蘇や西原村の孤立した集落ならともかく、街中の学校である。歩いても、自転車でも数分で関係先に行ける筈。遊び半分と見たが如何か。


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