■ 本紙が任侠系関連記事を特集したのは、本号が始めてである。
本紙創刊の主旨が「公務員(国、県議等も含む)の姿勢を正したい、隠された不正を追求したい」といった思いから発した事を思えば、極道界の特集は主旨を逸れる事になる。
切っ掛けとなったのは地元組織の「熊本連合」解消と、本欄に書く「岩井一家に解散」があった。本紙の読者層から見ると余り多くはないが「任侠の徒の動向」に関心を有している人達も居る。時折誤った情報が流されたりする。
ならば、いっその事特集してみようかなとなったのである。地元関係は独自に取材したが、山口組5代目から6代目に移行した記事、関東二十日会関連記事は「実話時代」の酒井信夫編集発行人の了解を得て転載、引用させて頂いた。前口上が大分長くなったが本題に入る。
平成17年9月16日、熊本市南熊本に総本部を置く岩井一家で幹部会が開かれた。その場で岩井敏勝総長(65)が「岩井一家を解散する」と発言し全部がこれに従った・・・・・。
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虎門会森原健次会長を支えた21年
岩井敏勝総長の人間像 −謹厳実直だが人付き合いは苦手−
■ 岩井総長が会長代行を勤めた虎門会は初代八木寅吉組長が、昭和28年に死亡した後実子寅吉(虎吉の説もある)が2代目を継いだ際有力幹部が夫々独立して組を結成した。
その後、かつての同門同士の争いが起きたりした為、昭和34年頃「虎門会」(この当時はこもんかいと呼称した)を創立、初代の時代に7人衆(実子を除く)と呼ばれていた各組長が参加した。
全盛を誇った虎門会だが度重なる当局の取締りで解散の憂き目に遭う。昭和49年春、森原健次組長、2代目大久保一家西村幸介総長などが中心になって虎門会を再生「虎門会○○組」と名乗る様になる。昭和59年、森原健次森原組々長が虎門会々長に就任、新生虎門会(とらもんかい)が発足した。
岩井総長は虎門会々長代行就任し、以後今回の解散まで森原会長を支えると共に、傘下の各組織の纏め役を務めていたのである・・・・・。
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