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熊本市東区八反田1丁目14-8

発行者:福島 宏

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 熊本の名門ホテルと称されている「熊本ホテルキャッスル」(斉藤隆士代表取締役社長)の納入業者から同ホテルの押売り商法について怨み節が聞こえて来た。同ホテルの取引先は約200社、食材だけでも100社を超えている。これらの業者で作られているのが「キャッスル会」(会長堤隆志堤写真館社長)である。業者に各種行事に参加するように推めるのが、このキャッスル会とホテルキャッスル。他に日本中国料理協会熊本県支部がある。その背後に居るのが斉藤隆士社長である。食材の多くは田崎市場の仲買人で、キャッスルとの取引きも年間数十万から数百万の弱小業者が多い。そんな業者に対してキャッスルは各種催事や、お節料理を売りつけるのである。現在進行型のお節には和洋中セットの「福重ね」45、000円と、フランス料理の「佛蘭西」50、000円がある。このお節を最低で1個、取引額が多い社には2個3個を押しつける。

 遣り方は和食、洋食、中華の各担当者が夫々納入業者に対して「買ってくれ」と伝えるのである。ある業者が「今うちは苦しかけん1個にしてはいよ」と云うと「その事は社長に伝えますからね」と半ば恐喝の様な売り方をしている。「仕方なく2個注文しましたが、10万円の儲けを出すには大変な努力が必要です。陰で泣いている業者は一杯いますよ」と語る。業者の最大の出費がこのお節料理の押し付けであろう。この商法は、かつて百貨店や、大手スーパーが従業員に商品を買わせていて、公取委から勧告を受け大分下火になった。キャッスルのこの遣り方は公取法に引っ掛かるか、ぎりぎりの商法であろう。
 今年2月には、昨年厚生労働大臣賞を受賞した中華料理店主の受賞祝賀会をキャッスルで開いた。発起人代表は斉藤社長で会費12、000円(記念品代含む)で政財界、県警OBら335人を集めた。参加者の一人は「俺達は全く付合いがないのに案内状が来た、斉藤社長名であれば断る事も出来ないので仕方なく出席した」と話し、市場関係者からも批判の声が多く出ている。







開業50周年記念事業でも
 ホテルキャッスルは、平成22年4月、開業50周年を迎えた(同ホテルの各種パンフレットは10月となっている)。50周年特別企画として「キャッスルグルメスペシャルさらに美味しい匠の饗宴」と銘打ってイタリアン料理の落合務氏、中華の脇谷友詞氏らを招いてランチ、ディナー会食を催した。昨年はフレンチの巨匠と云われる坂井宏行氏を招いて「匠の饗宴」を開いた。坂井氏のランチは10、000円、ディナーは20、000円である。これらグルメを各人が望んで味わうのであれば問題はない。しかし、日頃滅多に外食をしない業者らにチケットを売り付けるのである。1社2~5枚は当然で、一寸大きい取引先にはランチ、ディナーで10枚分買わされたという業者も居る。

 同じく開業50周年で玄海竜二(斉藤社長がファンらしい)「熊本ホテルキャッスル特別公演」も各業者に割り振った。桟敷席15、000円、溜り席12、000円、一般席10、000円である。料金は食事、飲物付だが、旅芸人玄海竜二に興味のない者も多い筈。「昼夜2回の公演のどちらかのチケットを買え」と担当者に云われ最少2枚、多い社は10枚20枚を要求されたと云う。

 究極は昨年12月の「松田聖子クリスマスディナーショー」だ。SS席45、000円、S席42、000円、A席38、000円である。聖子ファンであれば進んで買うだろう。現に東京では売り出したその日に完売したとニュースで見た事がある。だが、わが熊本の富裕層は浅い。売れ残るのは分かっての見栄で呼んだのか。多くの業者は嫌々チケットを買う破目に。その結果だが、「1千万程赤字を出したらしい」とは裏の声。以上目立った"押し売り"を挙げたが、これ以外にも何かと催し事を企画しては業者に負担をかけている。



(社)日中協熊本県支部
総会で収支決算書なし
 社団法人日本中国料理協会(以降日中協と称す)熊本県支部は「現ホテルキャッスル社長が中華料理人として熊本に来て設立された」とされる。現在の支部構成は約150人の会員と賛助会員60社で成り立っている。主な目的は調理技術や接客態度の向上、会員相互の親睦を図る事らしい。一般会員は月額1、200円×12カ月分の会費を納める。理事(会員の中から64名)は月額1、300円×12カ月分である。問題は賛助会員である。食材を中心とした60社は、1社当り月額2、000円、年間24、000円を納める(左の請求書参照)。食材業者は田崎市場を本拠とする社が多く、不満は田崎市場から噴出している。

 不満の第一は会費の使途と決算報告の内容が曖昧な点にある。筆者の手許に「2012日中協熊本県支部 定期総会資料」がある。表紙に1号議案平成23年度収支決算説明。2号議案平成24年度事業計画案。3号議案平成24年度予算案。4号議案平成24年度役員紹介とある。その1号議案は1頁目にあるが表題は「平成23年度収支決算報告(案)」とある。これは前年度の決算報告であり「案」はおかしい。総収入3、660、000円の内、賛助会費は1、440、000円を占める。支出の部は本部会費合計1、155、600円。九州地区本部に112、900円。事業費として毎月の行事などに支出が見られるが、7月に行われた賛助会員懇親会の支出は11、405円である。多分案内状発送費と思われる。懇親会は出席者1人5、000円の会費が徴収されるのである。年間24、000円を納めていながら懇親会費は別である。確に新年会、夏の納涼会は1名は無料だが同伴者1人に付き7、000円が徴収される。「社員や家族2、3人を連れて行けばそれで費用が賄われるだろう」と会員の1人は不満を隠さない。





 熊本の名門ホテルと云われている(株)ホテルキャッスルの歩いた道は決して平坦ではなかった。同ホテルは昭和35年秋季国体で御来熊される昭和天皇、皇后両陛下の御泊所に適した旅館、ホテルが熊本にはなかった。その為県内の著名企業やメディアが共同出資して「熊本振興株式会社」を設立、ホテルキャッスルと命名して開業した。謂わば天皇、皇后両陛下御宿泊の栄を約束された開業であった。創業時の社長は元九電副社長の平塚泰蔵氏でホテル経営には素人であった。それでも開業後数年間は県下の政財界に支えられて何とか黒字を出していたと云われる。しかし、ニュースカイホテルの開業で顧客が二分され経営が傾きだした。

 昭和47年8月三井観光開発(株)(本社東京)が株式の51%を取得、ホテルキャッスルは同社の傘下に入った。三井観光の発祥の地は北海道で、炭坑王と云われた政商萩原吉太郎が創立した「北海道不動産(株)」である。その後同社は不動産会社、ホテルなどを吸収して肥大化、全国に三井アーバンホテルを展開した。しかしリーマンショック以後経営が悪化、平成23年12月系列の三井住友銀行と共に(株)企業再生機構に支援を申請して受理された。親会社の経営悪化を受けて平成15年6月の総会で出戸義磨社長から当時取締役であった斉藤隆士氏が(株)ホテルキャッスルの代表取締役に就任した。同社の資本金は9億6千万円、1株の額面価格は1万円。詳細は目下資料収集中だが、三井観光商事(株)(平成11年三井観光開発(株)の名称変更)は持株を数%残して手離した。同株のPBRが1倍以上か、以下かが分からないので取引価格は不明であるが、手離された株は全てホテルキャッスル側が買い取ったと云われる。額にして4億円以上だが、斉藤社長はこの株券を額面価格で地元財界、取引先に引受けさせた。創業以来の大株主である肥後銀行、鶴屋、古荘本店、熊本トヨタ、同仁堂、東亜シルク、瑞鷹、出田実業を始め、熊日、熊本放送、テレビ熊本などマスコミ関係にも買増しを求めた。取引業者にも50株、100株を割当てたが、後に倍に増してくれと要請もしている。数百株を買った某氏は「配当が期待出来る訳もなく、キャッスルの負債などを考えると額面割れは必至だ。配当代りの無料宿泊券など貰ってもしょうがない」と語っている。

 かつての親会社である三井観光から3人が取締役に入っていたが、現在は三井観光商事(株)の代表取締役社長の須田貞則氏が平取締役で残っているだけである。斉藤社長の下、2人の常務は斉藤氏の子飼いの総支配人を充てて身辺を固めている。三井観光が手離した株を地元資本で賄ったのは斉藤氏と親しい経済人数人の知恵があったと云われる。余り表には出ていないが「ドコモの代理店を営むY氏もかなりの出資をした」と巷間噂されている。

 このY氏と斉藤氏はよく海外旅行にも同行しており、陰の声は「キャッスルは斉藤社長が牛耳っているのは確かだが、その背後に居るのがこのYだ」と事情通。斉藤社長については「表の顔と裏の顔は全く別人だ。以前業者からキックバックを受け取っていたWを解雇したが、Wに云わせれば『斉藤がしていた事を俺がやって何でクビか』となる。他人に厳しく自分に甘いのが斉藤だ」と云う。又、ステーキ肉の産地偽装の際、取引先や、顧客に出された詫び状も総料理長名であった。何故代表取締役社長である斉藤氏の名前がないのかとの不満も聞こえてくる。株式会社とは云え現在のホテルキャッスルは斉藤社長の独壇場と云われ、将来を危ぶむ声も多い。



ホテルキャッスルに危機感
ホテル日航熊本追い上げ急
 熊本市の中心地に位置する2大ホテルで生き残りを懸けたバトルが展開されている。開業50年余の歴史を持つホテルキャッスル(株)(斉藤隆士社長)とホテル日航熊本(田川憲生社長)である。地の利は開業10年のホテル日航(以降日航と称す)にあり、母体が熊本日日新聞社という強味もあって県内外の会議場や、披露宴などでホテルキャッスル(以降キャッスルと称す)を追い上げた。昨年度の売上げはキャッスル37億3、105万円、日航39億8、641万円と逆転されている。

 日航が開業する直前、平成12年度のキャッスルの水揚げは51億余。当時の同ホテル幹部は「日航の開業で来期は5、6億の減と見ている」と語ったが、現実はそれ以上の落込みとなった。
 日航の社長は開業時から熊日の永野光哉会長が務めていたが、永野会長は昨年不慮の事故で急逝した。

 ホテル日航が入居する「びぷれす熊日会館」建設については「上通市街地A地区開発組合」が進めた再開発ビルであった。しかし、敷地取得等で市民の目に触れない暗部を本紙が暴露報道したが、今回はそこには触れない。日航は建物を熊日会館が提供し、運営は日本航空の100%子会社である「JALホテルズ」(本社東京)が担った。ホテルに付随した和食、洋食など高級料理店も開業したが、開業直後の懐石料理の味は悲惨の一語に尽きるものだった(筆者は高級料理など縁がなく、知人に誘われて行った)。結婚披露宴の料理にしても同様で、熊本市民の間で「日航の料理の味は不味い」が定着した。その後徐々に料理内容と味は改善されていったが。

 話は戻るが、永野会長急逝後2代目社長に就任したのは田川憲生熊日常務であった。永野氏が事故に遭う3カ月程前お会いして雑談した折「近く田川、荒巻両常務が定年を迎えるがどちらかを熊日に残すのですか」と聞くと「いや2人共残す事はない」と答えた。この時、永野氏がその後2人が進んだ道を構想していたかどうかははっきりしないが、田川氏が永野氏の跡を継ぎ荒巻氏は熊日会館社長に就任した。熊日在職中は互いにライバル意識を燃やしていた2人だが、終わって見れば田川氏が陽の当たる部署を得たと云えようか。ホテル運営の力量は不明だが、田川氏は社長就任後組織の全面改革を進めた。例えば食材などの仕入業者を入札で選定、旧来の料理人との癒着を断った。調理人も技術本位に替えた結果、現在では「和食と洋食は日航」と云われるまでになった。対するキャッスルは伝統的に中華料理が強かったが、現在も「中華はキャッスル」の名声を守っている。

 日航の強味は、親会社の日本航空が平成21年1月経営が破綻した後ホテルオオクラと業務提携した事である。その時ホテル名も日航からオオクラに移すかどうか話題になった様だが「10年間培った知名度がある」として日航の名を残したと云われる。オオクラは元々和食部門が強かったホテルだが、その流れで日航の和食部門も美味しくなったのか。全国規模の会合は勿論、県内の公的機関の会場利用も「熊日」が背後にある事と前社長永野光哉氏の手腕もあってキャッスルは後塵を拝する形となったのが現状である。



全国豊かな海づくり大会
臨御の両陛下の御泊所 ホテル日航優位か
 先頃沖縄県で開かれた「全国豊かな海づくり大会」は天皇・皇后両陛下御臨席の下無事終了し、来年開催となる熊本県にバトンタッチされた。開催場所が水俣市である為今回同様2泊3日の御予定と思われる。両陛下の御泊所を巡ってホテル日航熊本とホテルキャッスルが水面下で大綱引きを行っているが、人脈豊富な田川社長を擁するホテル日航優位の情勢で、近々宮内庁が内定されると思われる。これまでも「何事も公平に」との天皇陛下の思し召しで皇族方の御泊りはホテルキャッスルとニュースカイホテルを交互に御泊所としていたが、ニュースカイホテルは偽神官問題や社長が経営する酒造会社の産地偽装米問題等から御泊所選考レースからはずれた様である。

 所でホテルキャッスルは、昭和天皇が昭和35年秋季国体御臨席の御泊所として熊本の財界人らの出資で建築開業したと述べた。御来臨に併せて建築されたので当然貴賓室が設けられ両陛下はゆっくりとお休み頂けたと御拝察出来る。天皇陛下の御来熊はこの年で3回目である事を知る人は少なくなっていると思われる。

 昭和天皇が初めて御来熊されたのは昭和6年11月11日である。同月15日に「帯山練兵場」で陸軍特別大演習観兵式に御臨席の為であった。しかし天皇陛下は御来熊翌日には菊池神社に御参拝。16日八代宮御参拝。17日阿蘇神社御参拝。18日藤崎八旛宮御参拝と時間の許す限り神社を参詣されている。勿論他の施設である教育機関、代表的企業、公的機関も御視察されているが陸軍関連施設は陸軍教導学校(後の幼年学校)と第六師団司令部だけである(熊本昭和史年表 熊日編集局編)。戦後、昭和天皇を恰も軍国主義者の如く論じた輩は多いが、この一事に由っても天皇陛下が平和を願う大御心をお持ちであったか理解出来るであろう。

 次に御来熊されたのは昭和24年5月29日である。戦災で傷ついた国民を励まされる為昭和21年2月に神奈川県を第1回目として全国御巡幸を始められた。熊本は3年目の御巡幸であったが、この時の御泊所は知事公舎であった。特筆すべき御滞在中各施設を御視察されておられるが2日目、合志村の種畜場で畜産関係者を激励された。その帰途恵楓園の前で奉迎している同園の軽患者約600名の姿が陛下のお目に止まった。陛下は停車を命ぜられて御車を下りられ、奉迎の患者に激励の言葉をかけられた。御言葉を賜った患者達は感涙にむせび泣いたという(鈴木正男著 昭和天皇の御巡幸)。横道に逸れたが、仮に今上陛下と皇后陛下の御泊りがホテル日航に決まった場合奉迎の県民にお応えする両陛下のお立位置の問題がある。恐らく市電通りに面した(そこしかない)窓からと思われるが、心から奉迎の気持をお伝えしたいものである。



 今回の選挙の特徴と云えば小党乱立、それも公示日直前小党の合流による新党旗上げだろう。誰もが驚き呆れた嘉田由紀子滋賀県知事がぶち挙げた新党であろう。卒原発を高々と掲げ「第三極のリーダー的存在となる」と大言した。11月27日の発表記者会見で党名を「未来の党、組織作りは今から」と実に頼りない記者会見であった。その日の夕、国民の生活が第一の小沢一郎は常任幹事会を開き未来の党との合流を切り出し全員一致で合流に決まった。その数日前、小沢は選挙ポスターの印刷を中止させており、この頃から水面下で嘉田新党作りを推めていたと見られる。「嘉田と小沢を結びつけたのが元社民党の阿部知子氏とも河村たかし氏とも云われている」(以上週刊新潮12/6号)。小沢にしては起死回生の策であったろうと思うが予想外の野田首相の「いきなり解散」で体制作りもままならぬまま選挙選に突入した。

 この嘉田知事だが、上昇志向の塊の様な女で、大学教授から滋賀県知事になったのだが、嘉田が知事選出馬を云い出した時、夫は絶対反対した。その夫と離婚してまで知事になった女である。関西電力大飯原発再稼働反対を唱えた橋下大阪市長に嘉田も乗り、再稼働反対を意志表示していた。所が夏の電力不足の懸念が高まった5月末、橋下は期間限定で再稼働容認を表明すると嘉田も「臨時的再稼働やむなし」に変わった。この頃まで嘉田は橋下を買っていて、自分の国政進出の足場にしようと考えていた節がある。元々滋賀県に原発はないのである。大飯原発は福井県内に設置されており、滋賀などは「近接県」で、万が一原発事故が発生した際放射性物質拡散が懸念されるとする地域で嘉田らが反対、賛成どちらを唱えても決定権は西川福井県知事が握っているのである。何故か橋下は嘉田を評価してなく、原発問題以外で会談する事はなかったと云われる。

 嘉田の中身の薄さは記者会見や、その後の発言を聞いても分かるが、溺れる者は藁をも掴むの譬え通り、"当選が第一"の離党組が続々と馳せ参じた。嘉田を陰で操っていると云われている小沢は元々原発容認派だ。減税日本の山田正彦、亀井静香らロートルと福田依里子ら若手の主義主張が一致する事はない。卒原発にしても国民の40%以上が原発は必要、段階的な削減が望ましいとのアンケート結果も出ている。未来から立候補しても「自力で当選する力」を持っている者以外は総崩れであろう。未来の党名で当選は不可能と見る。雌鳥歌えば家滅ぶと云うが、今の嘉田にぴったりではないか。急造の公約の中の一つ、「子ども一人当たり中卒まで年間31万支給」など財源はどこか持ってくるのか。ボケ。



惚けたか石原慎太郎
維新合流の愚
 東京知事を辞任して新党立ち上げまでは立派だった。立ち上がれ日本と「太陽の党」結成も予想内であった。新党立ち上げ後は、都議、自民党内の不満分子、民主党離脱組なども集結するかと期待したが、間を置かずして日本維新の会に転げ込んだ。その前後にメディアで報じられた石原評にはがっかりさせられた。新党構想は今春頃から描いていたが長男伸晃(元自民党幹事長)が総裁選に勝って自民党総裁に就くまで知事職に止まるというものであった。親バカの目には伸晃は優秀な政治家かも知れないが国会記者団や自民党中堅からは悪評さんざんの人物であった。結局総裁選では3位に終わった。結果を見て新党結成に動いた訳だが、たち日の平沼は小泉郵政に反発して党を飛び出してたち日を立ち上げた人物。しかも原発容認派だ。こうした自己信念の固いベテラン議員を抱えて橋下維新に合流など常識では考えられない事だ。維新の橋下も石原を三顧の礼をもって?迎え代表に据え自分は代表代行に収まった。これで選挙戦を戦う訳だが、維新塾出身者は総崩れ、残るのは石原、東国原、平沼、園田らベテランばかりだろう。比例で若手が拾われても戦力にはなるまい。田中眞紀子は石原を暴走老人と揶揄したが筆者は惚け老人と見る。ごった煮維新で何議席とれるか。
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