熊本県民新聞 WEB版
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熊本市東区八反田1丁目14-8

発行者:福島 宏

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 参院選熊本選挙区の議席は1。その一議席を巡って五人の候補が乱立した。実質自民松村と民主本田の一騎打ちと見られるが、両陣営とも 「自党候補優位」 の声はない。マスメディアの騒ぎを余所に国民は冷めた目で見ているようである。

  松村祥史(46)は前回の参院選で比例で出馬当選を果したが、今回は選挙区を選んだ。球磨郡出身で比例当選という事で大票田の熊本市区での知名度は今いち、本田と互角でスタートしたと見てよかろう。それを自覚してか選挙運動への取組みは早く、辻立ち、小集会への顔出しと地道な運動を続けて来た。父昭が球磨郡選出のベテラン県議、これが有利に働くかと云うと逆の効果も生んでいる。建設業を営んでいる為、同業ライバルは絶対推す事はなく、地元苦戦の一因にもなっている。それでも出身の人吉高校OBを中心に商工会、県農政連球磨総支部が纏った動きを見せている上、金子代議士の組織も動きが活発化して来た。勿論自民党県連は 「負けられない一戦」 として総力で臨んでおり、組織力をフル活用している観がある。党所属の国会議員や県議団を始め、熊本市内票を握る市議団の動きも活発化して来た。今回の参院選は自民党が野に下って始めての国政選挙であり、かつての様に固定票を頼る事は出来ない。

  政治の風は?と問えば鳩山内閣から菅内閣に政権交替した事で民主党の支持率が回復、菅首相の消費税10%発言で支持率も10%急落したものの、まだ民主党に期待する国民は多い。民主党に微風が吹いているといった所であろうか。都市部は民主が強いのは事実だが、熊本一、二区とも大都市圏に較べるとその差は小さい。

  近年選挙の勝敗を決めるのは浮動票と云われているが、今回の参院選はどうも様相が違っている感を受けるのは筆者だけではあるまい。県下全域に亘って情報を収集しても`熱気aが感じられないのである。県民の選挙に対する高揚感が乏しいのは 「参院選だから」 では片付けられない空気を感じるのである。残り十日 (この記事は七月一日に書いている) となったにも拘わらず両陣営の動きが定まらない。私観だが、今回の参院選熊本選挙区の勝敗は組織力が物を云うのではないかと思う。組織が動いた陣営が当選という果実に手が届くと見る。

  所で、松村本人についての人物評はすごくいいのである。親父に比べてと云う者も居るが、陣営内、高校同窓生らからも悪評はない。筆者は一度しか会っていないが、その時受けた印象は悪くなかった。で、勝敗を占うと一万前後の僅差で松村が抜ける、は如何であろう。体力が弱ったとは云え建設業協会、商工政治連盟の推薦、自主投票となった県医師連盟、農政連、県漁連のかなりの部分で優位に支持を取付けていると見られている。各メディアの世論調査では数ポイント差で本田優位とあったが、これは誤差の範囲内、組織力で勝る松村が最後は抜けると見るメディア (記者) が多い様である。


民主 両松野頼りの本田浩一候補
理念乏しい・問われる人間性

 前にも報道したが、本田浩一(43)民主党公認候補は民主党東京20区を地盤とする民主党衆院議員の加藤公一の秘書を二年程務めた後、熊本に帰郷した。その頃から政治家志向が強く、平成十九年七月の参院選で松野信夫選対を手伝って認められた。翌年松野頼久代議士の私設秘書に採用され熊本事務所に勤務した。同年民主党県連が衆院熊本二区候補を公募した際応募したものの、民主党県連は福嶋健一郎を公認候補に決定、本田は涙を飲んだ。

  今回の参院選候補について、民主党県連は県議の平野みどりを充てるとして調整を進め、平野自身も意欲を見せていたという。「大勢が決れば県連会長でもある松野頼久官房副長官の了解を取付ける予定であった」 (連合関係者) らしい。が、この話を聴いた松野は社民系出身の平野では選挙には勝てないとして自身の秘書である本田浩一を候補とすると宣言、「この鶴の一声で平野の芽は潰れた」 と連合関係者は怒る。「平野であれば楽勝出来た」 と語る民主関係者も居る。

  何故松野が本田を推したのかは松野に聴かなければ判らないが、これで民主県連は苦戦を強いられる破目になったのは間違いあるまい。平野であれば県議としての知名度もあり、身障者団体、県教組がフル回転したと思われる。

  民主党県連の公認を受けた本田だが、これが頗すこぶる評判が悪い人物。一番問題視されているのが国政に対する理念がない事、思考が自己中心で他人を思い遣る心がない等、身近な者程本田嫌いが強いのである。ある選対関係者は 「運動員は白けていますよ、彼は汗っ掻きで、街宣車の中には多量のタオルを準備しているのですが、外に出て演説が終ると車に戻って何枚もタオルを使う。途中で足らなくなり運動員が買いに走る事もあります」 「両松野氏は尊敬しているらしく、常に平身低頭、何でもはいはいと聴くが、運動員や、ボランティアの人達には見下した物云いをします。メディア関係者への対応も余り好感されてなく、取材した記者から 『あれじゃどうもね…』 と軽蔑されている様です」 と批判の声。

  両松野が支援してくれているので大丈夫と自負を抱いている様だが、頼久は鳩山、信夫は菅支持で、連合内も微妙な空気が流れていると語る関係者も居る。

  済々黌高校出身だが、今年五月の 「恩賜記念会」 に出席はなく、同校OBの動きも全くと云っていい程ないという。軽率を絵に画いた様な奴とは同級生の評。こんな人物を公認候補とした民主党県連さん、敗けたら責任問題ですよ。



7月1日、辛島公園に集った聴衆、主催発表1500、実数1200。歴代総理大臣演説で最低数。労組色を嫌う菅首相を慮って組合の幟は全くなく国民新党ばかりが目立った。



三泊四日・女課長補佐随行
北海道公費の避暑旅行?
“旭山・丸山動物園視察”
 
 今回は平成十九年八月、幸山市長が熊本市秘書課課長補佐I女史を同行した北海道旅行について検証する。ここで読者に謝っておかねばならない事がある。これまで小紙が幸山市長と秘書のIとのW不倫を報道するに当って 「女秘書係長」 を乱発したが、Iは平成十九年四月一日付で秘書係長から課長補佐に昇任していたのである。従って十九年四月以降の秘書課在職中の 「幸山市長随行時の肩書きは課長補佐」 と再確認しておきたい。課長補佐には、平成二十年四月、秘書課から他の部門に異動した際昇任したとの筆者の思い込みであったのである。不倫確認作業は平成二十年二月からであり、確証を得たのが四月であるので肩書きに問題はない。

  本題に入る。幸山市長は平成十九年八月二十二日から同二十五日まで 「国交省、都内企業訪問及び行政視察 (旭川・札幌)」 (情報開示による下欄の旅行命令書参照) を行っている。筆者は情報開示請求を行った際 「出張の際の行程」 まで請求する知恵がなかったのである。あっても開示したかどうかは判らないが、後日旅行の概要メモを入手する事が出来たので、今回はその行程メモを中心に述べる。

  八月二十二日、幸山市長、I課長補佐は熊本空港から羽田空港着、その後国交省などを回った筈だが、この日の行程は未記入である。即ち、幸山市長と秘書課長補佐は公費で出張し、都内のホテルに一泊しながら第一日目の行程記録を公表しきらないのである。翌二十三日(木)午前十時 「熊本港ポートセールス関連企業訪問」 (港区) 同十一時 「同」。十六時 「企業誘致関連企業訪問 (渋谷区) でこの日の業務を終えている。何で訪問先企業名が出せないのか、これではまるで中国かロシアの役人並ではないか。二十四日(金)九時十五分旭川空港着。十時五分平和通り買物公園、北海道伝統芸術工芸村視察。十二時バイキングレストランファイブスター視察。十四時旭山動物園視察。旭山動物園正門でこの日熊本空港を発った熊本市動植物園園長と飼育第一係長と合流、旭山動物園に入った。十八時旭川駅発札幌行き列車のグリーン車で札幌に向う。動物園長らは普通席。十九時二十分札幌駅着、ホテル泊り。「園長らは別ホテルだった」 と関係者。二十五日(土)午前九時、札幌市内 「丸山動物園視察」 熊本動植物園長ら同行。十四時四十三分 (嫌に細かい、三分などどうでもよい筈) 「新さっぽろ駅 札幌駅観光案内所視察」。(熊本動植物園長ら二人は十二時三十分札幌空港から新千歳空港に向い、十四時新千歳空港発機で羽田経由で帰熊している。) 幸山市長と秘書は札幌駅から列車で新千歳空港、十六時三十分新千歳空港発で羽田空港に向い、十八時五十分発で熊本に発った。

  この三泊四日の視察旅行、皆さん納得出来ますか。出発日の二十二日(水)は行程表なし。若し国交省に行ったのであれば訪問先部署、訪問目的位は記録されていてもいいのではないか。熊本動植物園長らと合流前、二人連れで 「バイキングレストラン視察」 には驚いた。熊本市営バイキング料理店でも開くのか。最終日も動植物園長らと十三時頃別れた後、二人だけで新さっぽろ駅周辺を散策している。人妻秘書で、後に小紙の調査でラブホ通いが発覚したI随行旅行、どう見ても公費によるラブラブ旅行としか思えない。


幸山市長の視察旅行〈疑惑その二〉
I秘書だけの随行で二泊三日
新情報 「新潟 ・湯沢温泉で一泊か」

 幸山市長が初当選し、I係長を秘書課に異動させて以来、Iを五年間秘書課に釘付けした (Iも喜んで?)。その間の東京方面の出張は七十九回。内Iを同行した出張は二十七回 (二十八回との情報もある) で、日帰り出張八回、二泊三日三回、三泊四日二回 (以上情報開示資料から)。三泊四日の一つが本頁の北海道出張である。本欄では二泊三日の内、秘書以外の同行者の居ない出張日の行程を記す。

  出張日は平成十九年二月二十二日〜二十四日の二泊三日。幸山市長の出張目的は 「コールセンター等視察」 (旅行命令書) であるが、苟も市民の税金を遣う公費出張である。いくら市長であっても二泊三日の出張に 「コールセンター視察等」 はあるまい。旅行命令書の 「用務先」 は一寸詳しいが、これも地名のみ (命令書参照) である。通常公務出張の場合、他都市では必ず関係部局の職員が同行している。幸山市長の出張でも東京事務所員が同行したり、関係部局の職員が同行、又は現地で合流 (北海道出張の様に) している。しかし、これらの出張にIを随行させないといけないのか根拠は乏しい。同行者なしの出張は、要求した一部の資料の中だけでも、本欄の二泊三日と平成十八年十二月二十五日の一泊二日東京出張がある。このクリスマス出張は、小紙で過去に軽く触れているが、官公庁の仕事納め直近のクリスマスに「図書館協会、国交省総務省への要望」 とは如何なものか。この時は図書協会の会合だけは出席したらしいが、僅か二時間程であったと云う。この年話題に挙っていた原宿、六本木の大ネオン飾りの見物と云ったら云い過ぎか。

  本題に入る。二月二十二日十五時三十分杉並コールセンター視察。十七時三十分恣S道総合技術研究所国立研究所視察 (国分寺市) で、この日の業務は終了、都内のホテルへ (の筈)。翌二十三日(金)十時十四分富山駅着と行程表にはあるが、これが問題である。この日の 「旅費計算書内訳」 によれば 「東京・越後湯沢」 「越後湯沢・富山」 となっている。何故 「東京・富山」 となっていないのか。東京〜越後湯沢間一九九キロ、越後湯沢〜富山間二〇二キロある。東京に泊った場合、越後湯沢回りで富山に行く事自体に無理がある。いくら上越新幹線があるからといっても、越後湯沢から富山への直通便はない。即ち二人は二十二日の内に上越新幹線を利用、湯沢温泉に一泊したと見るのが正解であろう。小紙がラブラブ旅行と云う所以である。熊本市秘書課は、この日の行程を請求した議員に事実を隠して報告したのではないか。公私混同旅行の費用、幸山市長とIは返還して貰いたい。



 鳩山首相の`鳩の一刺aで小沢幹事長が倒れ、虎視眈々と総理の座を窺っていた菅直人が一気に飛び出して、総理に就任した。凋落の一途を辿っていた民主政権支持率も急回復、その勢いに乗っての参議選突入となった。現在 (七月二日) 菅首相は己れが発した消費税10%増税問題の弁明に必死だが、問題は他にある。即ち、民主政権が中国一辺倒である事、日教組重視、夫婦別姓など亡国政策を中心に据えている点にある。参院選で与野党逆転に国の浮沈がかかっているのである。

 政権交替をワンフレーズで自民党に圧勝した民主党。党代表の鳩山由紀夫が総裁に選ばれ鳩山内閣が誕生した。が、肝腎の幹事長を小沢一郎が確保、金と権力を一手に握られてしまった。友愛政治を掲げ、日米中の正三角形を目指すとした国際関係改革も、中国寄りに舵を切って米国の顰蹙を買った。コンクリートから人へのフレーズも空中に浮いたまま、普天間問題でぶれまくった結果、僅か八カ月で辞任に追い込まれた。

  民主党のこれまでの主張に従えば、内閣を解散して国民の信を問わずに誕生する政権は認められない、筈であった。しかし、鳩山辞任が決るとさっと手を挙げた菅直人が総裁選に勝って首相の座に就いた。云っている事とする事がかくも違うのだが、それを批判するメディアは少く、国民もこの交替劇を疑う事なく菅政権を歓迎し、民主党の支持率は上った。

  この時期、ふと思った事がある。それは、昭和五年、当時海軍中尉の三上卓が長崎佐世保基地に勤務中に作った 「青年日本の歌」 の第三番である。「嗚あ呼あ人栄え国亡ぶ 盲めしひたる民世に踊る治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり」 八十年前に作られた歌詞は今の世相をぴたりと云い当てているではないか。同じく二番 「権門上かみに傲おごれども 国を憂ふる誠なく 財閥富を誇れども 社稷しゃしょくを念おもふ心なし」 民主党政権と、金儲けの為には手段を選ばない日本経済連の姿がだぶって見える。青年日本の歌は佐世保海軍基地内から次第に日本全国に展っていった。三上は二年後五・一五事件に参画、時の首相犬飼毅を撃って即死させた後、東京憲兵隊に出頭した。

  いささか本筋と離れた記述になったが、現今の政治と民衆の動態を見るにつけ、この歌が頭に浮ぶのである。三上等は昭和維新を目指したが、政権奪取後の所信演説で鳩山首相は 「無血の平成維新を成した」 と自画自賛した。同じ維新でも天と地程の違いがあるのに気付いていない。どろどろした政界を生きる彼らに維新と云う言葉は相応しくない。その事は、この八カ月の民主党幹部らの言動を見れば一目瞭然ではないか。政権を握った途端、自民党などが慎重審議を求めていた 「中小企業金融円滑法案」 を自民党欠席の中で進めた挙句強行採決した。かつて民主党が唱えていた 「数の横暴」 を立場が代ると平然と行ったのである。


小沢大訪中団

 平成二十一年十月、小沢一郎幹事長が組織した訪中団が北京を訪れた。元々親中派の小沢である。中国側は人民大会堂を準備、訪中団を歓迎した。六百名前後の訪中団は、国会議員一四三名、内小沢チルドレンが八〇名を占めた。残りは経済界を中心に小沢信奉者らである。

  この時、小沢と中国胡錦濤国家主席の会談は僅か三十分。「やっと政権を自民党から奪う事が出来ました。今後は貴国の意向を尊重してガス田開発、尖閣列島問題には一切口出しはさせませんから」 と小沢幹事長。「是非そうして貰いたい、ついでに日本が持つ最先端技術も伝受願いたい。見返りに国会議員全員と私が握手をして上げますよ。あ、それから近く部下の習近平が訪日するので天皇との会見頼んだよ」 と胡錦濤主席が云ったかどうかは知らないが、土下座外交 (後述) には変りはなかろう。国会議員一人一人流れ作業で胡錦濤は握手し、写真を撮らせた (民主党の莫迦の中にはこの時の写真を自慢たらしく事務所に掲げたり、選挙用パンフに遣っている奴が居て滑稽極りない)。

  小沢幹事長一行の訪中が二十一年十二月十日、同月十四日に中国国家副主席の習近平が来日、翌十五日天皇陛下と会見した。この会見について、平野官房長官らは 「天皇陛下のご会見は一カ月前に決める」 所謂一カ月ルールを無視、断った宮内庁羽毛田長官を強引に説伏せて実現させた。メディアの一部は 「訪中した小沢一行に胡錦濤国家主席は会うのを渋った。会談実現の為に出したのが習近平と天皇の会見であった」 と報じた。

  自己の名誉欲の為に天皇陛下を取引きに遣った小沢は正しく`国賊aであろう。内閣の行為を批判した羽毛田長官に対しても 「一部局の役人がどうだこうだと云い、会見まで開いて悪態をついてとんでもない。官僚主義の最たるものだ」 と批判。加えて法解釈を違えて 「憲法ではすべての天皇の行動は政府、内閣の助言と承認でやって下さいということになっている」 (熊日平成二十一年十二月二十二日) と主張した。天皇陛下のこの時の 「特例会見」 については殆どのメディアが内閣の強引な手法に批判的であった。

  その後、小沢側近の石川知裕議員や、元秘書らが政治資金規制法違反容疑で逮捕されたが、小沢が公の場で納得のいく説明をした事はない。筆者の信条として 「山あれば谷あり」 がある。小沢一郎の絶頂期、今思えばこの頃ではなかったか。人間万事控え目がよろしいようで。(敬称略)


日教組を蘇らせた輿石参院会長
夫婦別姓論者・千葉法相、福島瑞穂

 民主党が政権を取った事で日教組が元気付いている。山梨県教組出身で、ゴリゴリの社会主義者輿石東参院議長が表舞台に踊り出たからである。

  輿石参院議長は小沢前幹事長の側近の一人で、民主党内閣でも発言力が強い事でも知られている。政権が発足して早速見直されたのが、全国の学童を対象とした学力テストの規模縮小である。この学力テストは当初から日教組が反対し続けている問題であるが、自民政権下では 「学童の実力判断資料に使う」 として実施されていた。日教組の云い分は学力テストによって 「児童の序列、競争を煽る」 というものであった。学校間格差を助長するなど根拠に乏しい理由で反対を続けた。今年も抽出調査として全国で学力テストが行われたが、抽出校以外の学校も自主参加した所が多かった。見直し作業の中で行われる予定であった 「教職員給与に関する義務教育費国庫負担金」 は何故か削減されなかった。民主党輿石参院会長兼幹事長代行の力であろう。戦後の日教組偏向教育が現代の無国家主義を蔓延させたと心すべきであろう。

  次は千葉景子法相。弁護士時代過激派学生運動家の弁護に当った事で知られている。社会党々首で少子化担当相であった福島瑞穂共々夫婦別姓化推進論者である。選択的夫婦別姓法案は提出間近に選挙の為国会が会期通りで終った為実現しなかったが、若し民主党が参院選で勝てば再提出されるのは間違いのない事だろう。夫婦となる男女が勝手に別姓を選んで生れた子はどうなるか。父母何れかの姓を名乗らせられる。成長して片方の姓を名乗りたいと云っても法的に出来ない。家庭崩壊の一里塚が夫婦別姓である。
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