熊本県民新聞 WEB版
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これで職員の倫理が正せる?


熊本市長と女性問題について小紙は、田尻靖幹市長を皮切りに現職幸山政史市長まで3代に亙って報道して来た。小紙がモットーとする公務員の公僕精神を呼び起こす一手法でもある。筆者が熊本市長と直接的に話す事が出来たのは石坂繁市長以降である。石坂氏とは玄石会の幹部との縁で、星子敏雄市長とは思想の流れの中で会話を交わすまでになった。星子市長が四選出馬を諦めた後、市長の座についたのが田尻靖幹氏。星子時代に助役を務めて退職、次期市長選に出馬するなどおくびにも出さず、深く静かに潜行して支持を拡げ市長の座を勝取った。田尻氏は3期目を目指していたが、宮城県知事のゼネコン汚職のとばっちりで出馬を断念させられた。その後継と目されたのが三角保之氏、6氏乱立の激戦を制した。女性問題が浮上しだしたのは田尻市長から。石坂、星子両市長にこの種の噂は立たなかった。田尻市長とは、彼が秘書係長の時代から知己を得ていたが、新市庁舎建設で業者との癒着が世間の話題に上る頃から筆者は田尻氏と距離を置いた。2期目の任期最後の年の4月に小紙を創刊、創刊号から田尻市政批判を連発した。詳細は後述しているが、田尻市長の後を継いだ三角氏も、田尻市長に負けず劣らずの女好き。但し、三角氏が幸運だったのは、理由はどうあれ、強力な自民党市議団に支えられていた事である。筆者は、三角氏が県議時代から「酒と女にだらしがない」との情報を得ていたが、裏を取ってまで書く気がなかった。当選後、独占インタビューに応じてくれ、その後どこで会っても気易く話掛けてくる人柄に騙されていたのかもしれない。ある時など市電交差点で信号待ちをしている時、黒いクラウンの後席の窓を開け「福島さん福島さん」と呼ぶ声、何方かと見ると、これが三角市長さん、全く憎めない人柄ではあった。しかし、2期目も半ばを過ぎると公私の別がなくなり、海外視察という名の観光旅行が増えた上、公費で妻に高級化粧品を買うなど足許が乱れだした。この頃、三角氏と秘書課のT女子職員の不倫が浮上、筆者が取材に動き出した所翌年の春の異動で秘書課から出した。幸山政史市長と同じ、いや幸山市長が三角前市長を真似たのか、係長から課長補佐に昇格させての異動であった。幸山市長が誕生した時筆者は「これで市長の女問題は断ち切れた」と真実思ったのである。所が幸山君、若い故もあってか、三角氏を飛び越えて田尻市長並、いやそれ以上の女関係を露呈したのである。


田尻靖幹元熊本市長 いろはげ、オカポン女帝

禿は「あっちが強い」との俚諺がある。事実筆者など精力絶倫、幸山市長など足許にも及ばないラブホ通いをしている、と云いたい所だが、寄る年波には勝てず聖人君子?の日々を送っている。で本題。田尻靖幹元熊本市長。早大専門部を卒業して昭和29年4月、熊本市に採用される。観光課長、秘書課長、総務局長を経て星子市長にうまく取入って助役のポストを得る。昭和60年星子市長と衝突して助役を辞め野に下る。その後次期市長の座を狙って着々と準備を整えた。出馬表明1年前、この情報をキャッチした筆者は、星子市長と当時の秘書課長に進言したが「そんな事はあるまい」と容れられなかった。昭和62年春から田尻氏は公然と行動開始。現職市議も取込んで選挙戦に臨み、川俣氏を破って初当選した。以後2期8年間イベント市長、銭ゲバ市長として恣に熊本市政を牛耳った。女性問題を起したのも歴代市長でトップ。観光課長時代部下のH嬢と深い仲になった。H嬢当時28歳。当時の市長は固物で知られた石坂繁市長。上司に阿諛は田尻氏の特技で、石坂市長の覚え目出度く秘書課長に抜擢された。するとHも秘書課に移したのである。この一事で田尻市長とHの仲が知れ渡った。Hの当時の住所は新町の中央郵便局の近く、何人もの職員が夜田尻氏がH宅を訪う姿を目撃、その情報から筆者も1度確認したが、当時小紙は発行されてなく目撃だけで終った。石坂市長も「女性問題が噂に上っている、身を正すように」と注意したが効果はなし。その頃、H嬢と市の幹部の子息との縁談が持ち上ったが、田尻氏はこれを壊したと云われる。結局Hは未婚のまま平成6年に定年退職したが、その後持病が悪化して数年後に亡くなった。田尻市長との仲は、田尻氏が助役時代に切れたと見られている。次に現われたのが「おかぽん女帝」として名を挙げたOTである。

Oは田尻氏の市長選の時、田尻選対に出入りして田尻氏と昵懇の仲となった。夫と一男一女の家庭持ちである。平成元年4月、田尻氏はOを母子福祉センター参事として採用したが、直後からOはセンター長などを無視、センターの開館、閉館時間を自分の都合に合わせて変更する始末であった。平成4年、熊本市はデイサービスセンター長寿の里を熊本市城山薬師町に建設したが、「この施設はOの為に造った」と市の職員に云わしめた程、Oの意向に添った施設であった。ここでは副施設長のポストにあったが、市から出向のK署長などOの部下よろしく、全てOが采配を振った。田尻市長は公用車で移動中でも、当時珍らしかった自動車電話でOと連絡をとり合った。東京出張の際もO宅に電話を掛けるので、夫とのトラブルが絶えなかった(後に筆者がOの夫から直接聴いた)。結局田尻市長が原因でO夫婦は離婚となった。2人の仲人は自民党県連会長まで勤めたK県議であった。離婚前のO家は異常であった。夫は庭に建てられたプレハブ室に居住、本宅の方に田尻市長が堂々と訪れていたのである。Oは田尻市長が大好物のアイスクリームで歓待、2人の子供達も「田尻と自分達の母との仲を認めていた」と云われる。Oは、熊本市が西里デイサービスセンターを設立すると、同センター施設長として就任、遣りたい放第を尽くしている。年度予算を半ばで費やし、不足分は他の施設に購入させたり、予算を回させたりしている。田尻市長とOとの余りにも目に余る行動に怒った某紙の記者が大阪出張の田尻市長を追って別便で上阪、事前に調べていたホテルを張込んだ。夜外出する2人を尾行したが、Oは洒落た帽子姿で恋人よろしく腕を組んでいたという。一連の出来事は「市長の不倫」として報道する予定でパソコンに入力したが、表に出る事はなく、この記者は郡部に異動となった。ゼネコン疑惑で3期目を諦めた田尻市長だが、院政を目指した国際交流会館理事長ポストは小紙の報道もあって御破算になった。Oは勤務時間中に自宅に田尻氏を迎えている所を小紙が1カ月かかって撮影、報道した事で退職に追い込まれた。今もOと田尻氏の仲は続いていると云われる。



三角保之前熊本市長 小紙取材に慌てて配置換え

三角保之氏が熊本市長選に出馬したのは、平成6年11月であった。県議の実績と田尻市長の後継として自民党市議団、公明、社会の市議団の支援を受け、2位木村仁氏に2万票の大差をつけて当選した。この時、田尻市長が選挙資金1億円を出した話は未だ語り草となっている。6人が乱立した選挙戦であったが、実質、三角、木村、米満3氏の争いであった。結果は前述の通り市議の大方の支援をとりつけた三角氏が勝利した。市長に当選後3年程して筆者の耳に「三角市長と秘書の女性職員が出来ているらしい」との噂が入った。三角氏については、県議時代、議員控室の受付け係の女性と親しいとは聴いていたし、県発注の土建関係で口利きしているとの情報を得ていた。土建関係の情報については、選挙前に報道、それなりの反響もあったが選挙の流れは変えられなかった。で、女性問題について。県議時代に手を出したのは前記議員控室受付け担当の夫子ある女性と小1年程。その前後からコンパニオンのK女と深い関係を持ち、スポンサーに納った。夫の居る女性であったが、後にこのK女は三角氏と別れ、夫とも離婚して某自治体の首長の妻の座を射止めた。その後に手を出したのが秘書のT女である。T女は独身で仕事も出来る職員であった。三角市長との仲は薄々耳にしていたが、ある時北海道出張に三角氏がT女を同行したのである(幸山市長も同じ事をしているが)。この確証を得て、筆者が2、3の市議に裏取りを始めた所、三角氏はT女を秘書課から他の部署に異動させた。が筆者は裏を取り、三選出馬直前で報道を予定していたが、市議らに「益城町との合併が終るまで待て」と頼まれて報道を中止(金は貰ってないよ)したのである。三角氏の落選でネタは流れたが、このT女史は課長職で現役。三角氏とは別れ、市OBのK氏と同居中とは風の噂。


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