熊本県民新聞 WEB版
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発行者:福島 宏

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■ 大方の予想を裏切って小泉首相は「郵政法案否決は小泉内閣の否決に繋がる」として衆院を解散した。恐らく殆どの国民は「例え否決となっても衆院解散まではしないだろう」と思っていたのではないだろうか。

所が小泉首相は解散に打って出た。それだけに留まらず郵政法案に反対した自民党の議員を公認せず、次々と刺客とメディアが比喩する対立候補を送り込んだ。かつて自民党を牛耳っていた亀井静香、綿貫民輔等さえ例外ではなかった。古賀誠元幹事長は欠席放棄権組であった為何とか首(公認)が繋がった。

衆院解散が宣言された際静まり返った自民党席に対し、民主党は歓声を挙げ拍手で解散を喜んだ(様に私には思えた。)筆者はその状況をテレビで視ていて「民主党は莫迦だな」と思ったのである。

元々社会主義者と保守主義者の寄り合い世帯に「日本の政治を任せる」程国民は愚かではない。直後に岡田代表は「今度の選挙で過半数をとって政権を掴む。過半数割れしたら代表を下りる」と云っていた。「他と連立も組まない」とも強気の発言をしたが、その後日追う毎に発言は慎重になって来た。一度民主党に政権を取らせるのも面白いと思っているんだが…。で、本題に入る。

先の衆院選で熊本3区は現職松岡が予想外に苦戦、新人の「小僧っ子県議」の坂本哲志に破れた。比例で何とか議員の身分は保ったものの松岡のプライドは大きく傷ついた。その証拠に、他の問題もあったが”あの栗原相談役”を切ったことでも分る。敗れた直後から松岡陣営は阿蘇を始め全選挙区で小まめに活動を続けた。衆院解散の読みも早く、選対事務所、ポスター作成も坂本を一歩も二歩もリードしている。

対する坂本だが、代議士1年生という経験不足もあると思うが、当選後の地元対策が疎かであったと聞く。「選挙応援の見返りがない」と不満を述べる有力者もいると聞く(本来見返りを要求するのが間違っているんだが)。
郵政民営化法案で一番影響を受けたのが坂本ではないか・・・・・

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熊本一区 自民新人・松野に危機感

 木原知名度不足否めず 
−自民公募効果に期待−

■ 自民党県連は、熊本一区に今回は公募で選んだ新人木原稔を擁立、妥当松野を目指す。熊本一区は、小選挙区比例代表並立制度が施行された平成八年十月の選挙で県議から転身した岩下が細川に挑戦したが8万5千対4万9千票と惨敗した。

平成10年4月細川突然の議員辞職に伴う補選で、細川の後継と目された松野頼久に岩下は1万票の差をつけて初当選した。しかし、この選挙戦の最中から岩下の独善性を、応援した県議、市議から批判が続出。平成12年6月の総選挙で松野に敗れた岩下は、15年11月の総選挙でも票差を広げられて敗北した。次第に力を付けてきた松野に対して「岩下では勝てない」という声が大勢を占め、県連は公募に踏み切ったのである。自民党各区の支部長は落選2回までの規約があり、岩下に後はなかった・・・・・

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借金帳消しの自民に謀反
岩下栄一・仁義欠乏症か 
予想通りの出馬辞退

■ 岩下栄一が国政選挙初挑戦したのが平成8年10月の総選挙である。相手は最強細川護熙で、まったく歯が立たなかった。元々敗ける選挙と県議の誰もが知っていて「細川の対抗馬として名乗り出る者が居なかった。岩下は河野洋平がまだ力を持っていた事もあって県連幹部が持ち込んだ話に乗ってしまった。自分がピエロである事に気付かない程お人善しでもあったという事だ」と古参県議は語る。

落選はしたが、そのまま1区支部長を務めていて時、平成10年の細川の議員辞職で補選が行われた。本紙はこの時、細川から松野後継問題に不信を持ち、徹底して細川、松野反キャンペーンを行った。自民党は県議、市議団の懸命の戦いでこの選挙は岩下が勝利した。

前回の選挙に敗れて以後、大して運動をしなかったのに、である・・・・・

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